宋の太祖は人材にも恵まれていました。弟の趙匡義(二代、太宗)は将軍としても有能で優れた補佐役でしたし、宰相の趙普は学問こそありませんでしたが現実主義者で有能な行政家でした。
これら諸将の活躍で、976年太祖が没する頃には呉越・北漢の二国を残し、中国をほぼ統一することができました。
さて、統一した天下でしたが放っておけばまた戦乱の世に逆戻りでした。太祖は戦乱の元凶を節度使だと判断し、最後は単なる名誉職にします。しかしその方法も彼らしい人間くさいやり方でした。
ある日、太祖は建国の功臣たちと酒宴をしていました。宴たけなわのとき、太祖は突然憂い顔になります。
「そなたたちは、どうせ朕の地位を狙っておるのだろう?」
この言葉にびっくり仰天した諸将は口々に否定し、太祖をなだめました。後日、互いに相談した諸将は参内して、太祖に自らの軍権を返上することを申し出ます。
喜んだ太祖は、彼らに莫大な恩賞を授け一生富貴に暮らせるようにして、これに報いました。
また、滅ぼした諸国の王族達も殺したりせず、手厚く保護しました。これにより敵国の抵抗が弱められ統一が早まりました。計算ずくというより、太祖の優しい性格によるものでしょう。
文人によるシビリアンコントロールを強化したのも太祖です。ただこれにより宋の軍事力が弱体化し滅亡の原因になったことは事実でした。科挙を改善し、文治主義を確立しました。宋は空前の経済的発展を遂げます。
幼君から国を奪うというと、日本では徳川家康を連想しますが、太祖は逆に滅ぼした王家の子孫を保護することによって国を保ちました。優しい性格もありますが、徳によって国を治めた証明でしょう。
宋の太祖趙匡胤は、史家の間でも評判がよく歴代皇帝で最高点をあげる者もいます。私も世界の歴史をみても、他に例のないような屈指の名君だと評価します。