鳳山雑記帳はてなブログ

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「来た、見た、勝った」Veni vidi vici. ([ウェーニー・ウィーディー・ウィーキー])

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 ガイウス・ユリウス・カエサルの有名な言葉です。紀元前47年、カエサル小アジアのポントス王ファルナケス2世を破ったことをローマに報告した時の手紙がたったこれだけの文章でした。
 カエサルの文章は「ガリア戦記」でも分かるように簡潔で明瞭なのが特徴ですが、これはその極めつけです。
 
 戦い自体はカエサルにとってはピクニックに行くようなものでしたが、簡単に経過をご紹介します。ファルサロスの戦いによって宿敵ポンペイウスを破ったカエサルは、逃げるポンペイウスを追ってエジプトに入ります。
 当時エジプトは、プトレマイオス13世と、その姉クレオパトラが王位を争う内戦状態にありました。プトレマイオス13世とその廷臣たちは、カエサルを恐れ、逃げてきたポンペイウスを殺してその首をカエサルに捧げます。しかし、頼ってきた者をだまし討ちにするという卑劣な行為はかえってカエサルの気分を害しました。
 ちょうどそのとき、カエサルのもとを当時追放されていたクレオパトラが秘かに訪れます。絨毯にくるまった贈り物のなかから裸のクレオパトラが現れた、など映画ではよくあるシーンですがそんなことがあったのかもしれません。

 ところでカエサルは美貌のクレオパトラに溺れて、協力を約束したといわれますが、カエサルほどの大政治家がたかが女ごとき(失礼)で動かされるはずがありません。冷静に両者を比べて姉のほうがローマの同盟者として信頼できると判断したのでしょう。
 カエサルクレオパトラの同盟は、一時カエサルの立場をわるくしました。わずかな兵力しか連れてきていなかったため、プトレマイオス13世の軍勢に攻められ、アレキサンドリアに籠城することとなりました。エジプト軍は港に停泊していたローマの軍船を焼き討ちします。このとき火が有名なアレキサンドリア大図書館に延焼し、古代の叡智を集めた貴重な書物が灰になりました。
 籠城は実に半年に及び、さすがのカエサルもあわやという時に、小アジアから援軍が来ます。もしもの時のためにカエサルが呼び寄せていたローマ軍でした。カエサルは援軍と共同し、内と外からエジプト軍を攻め、ついにプトレマイオス13世をナイル河に追い落とします。

 こうしてエジプトの単独統治者となったクレオパトラは、後見人になったカエサルとともにハネムーンを楽しみました。ナイル河の上流に向かって遊覧船を浮かべたなどと史書は伝えますが、そんなカエサルのもとに危急を告げる報告がありました。
 「ポントス王ファルナケス2世が反乱を起こした」という内容でした。ファルナケス2世はポンペイウス派で、彼の敗死後雌伏を余儀なくされていましたが、小アジアを押さえていたローマ軍がエジプトに向かって手薄になった隙に蜂起したものでした。

 カエサルは早速子飼いの3個軍団を率い鎮圧に向かいます。BC47年5月エジプトを進発したローマ軍は、途中シリアでの支配権を確立しながら悠々と小アジアに入ります。
 8月2日、ポントス西部のゼラで両軍はぶつかりました。戦いはわずか4時間で決着がつきます。ガリア以来の歴戦の精鋭部隊であるローマ軍と、寄せ集めのポントス軍では力の差がありすぎました。両軍の兵力は不明ですが、おそらくローマ軍は2万前後、ポントス軍はその倍くらいあったと思いますが、戦いは一方的なローマ軍の虐殺でした。

 Veni vidi vici. ([ウェーニー・ウィーディー・ウィーキー])たった3語からなる史上最も簡潔な戦況報告はこのザラの戦いのあとで出されたものです。
 ローマに凱旋したカエサルローマ市民の熱狂的歓迎を受けます。しかし戦いはまだ済んでいませんでした。北アフリア、ヒスパニアポンペイウスの残党を鎮圧すべく転戦します。完全に一掃できたのは紀元前45年10月、それはカエサル暗殺の5ヶ月前のことでした。