遥かなる飛鳥時代(592年~710年)。日本の国体が固まった時代といっても過言ではありません。そして多くの血が流された時代でもありました。
蘇我氏と物部氏の対立から始まって壬申の乱後の天武天皇即位まで。厩戸皇子(うまやどのみこ。一般には聖徳太子として知られる)や中大兄皇子など幾多の日本史上のスターを輩出した一方、力がものを言う殺伐とした時代だったのも事実。
まず最初は、蘇我氏と物部氏の権力争いからはじまった大規模な内乱、物部合戦について述べようと思います。史書では丁未の乱とも呼ばれますが、一般の方は何のことかさっぱり分からないだろうと思い分かりやすいネーミングにしました。
これは大和朝廷における豪族を家格によって序列付けたもので上から
連(むらじ)…朝廷に職能を持って仕えた豪族。一種の官僚団ともいえる。大伴氏、物部氏など
伴造(とものみやっこ)…連が高級官僚なら、こちらは中級官僚に当たる。
百八十部(ももあまりやそのとも)…伴造のさらに下。首(おみと)、村主(すぐり)などの姓を持つ。
あと序列は微妙ながら地方の有力豪族に対しては
国造(くにのみやっこ)…地方の有力豪族。毛野君、吉備君、筑紫君などが有名。
県主(あがたぬし)…成立過程は国造よりも古いと言われる。小規模の集団の族長に与えられた。
などがありました。
確かにその一面はありましたが、本質は違います。大和盆地の有力豪族の代表として朝廷権力を制肘しあわよくば自分が乗っ取ろうとした蘇我氏と、朝廷権力の増大が自分の権力強化につながると目論んだ物部氏の対立が真相に近いのではないかと考えています。ですから仏教云々が無くても対立は避けられなかったはずです。
ここで当事者の一人、物部一族の当主守屋(不明~587年)についてみてみましょう。物部氏は一般には軍事を司る一族といわれますが、調べてみると軍事は大伴氏の職掌で物部氏は司法・警察をつかさどる一族だったようです。
物部氏は、まず連の中での権力を握るべく対立する大伴氏を陥れようと画策します。允恭天皇(いんぎょうてんのう)亡きあとの皇位争いで穴穂皇子(のちの安康天皇)側に付き、軽皇子側に付いた大伴氏を攻め滅ぼします。大伴氏はこの時完全には滅びませんでしたが以後没落して行きました。
両者の対立はお決まりの天皇の後継者争いでした。蘇我氏の強力なバックアップで皇位に就いた用明天皇に対し、異母兄弟の穴穂部皇子(崇俊天皇の兄)が強烈な不満を抱いたのです。どちらも蘇我氏の血を引いていましたが皇子の激しい性格を馬子が危惧していたために選ばれなかったともいわれます。
天皇は即位二年目で病気にかかります。太子には先代敏達天皇の皇子押坂彦人大兄皇子が選べれていました。立場が悪くなっていた守屋は周囲から何か行動を起こすかもしれないと警戒されます。これには陰で馬子の扇動があった事は想像に難くありません。
しかし朝廷のある大和盆地を握っている蘇我氏の方が強大で多くの豪族たちが馳せ参じました。同じ連でありながら物部氏に圧迫されて勢力を弱めていた大伴氏さえ蘇我馬子側に付きます。これでは八十物部と言われるほど多数の同族を抱えていた物部氏でも不利は否めませんでした。
物部氏は掌中の珠の穴穂部皇子を失い、ほとんど打つ手もありませんでした。馬子と守屋の政治力の違いでしょう。物部氏は本拠の渋河、衣摺で激しく抵抗しますが多勢に無勢、守屋は乱戦の中で矢を受けて戦死し軍勢は四散しました。
この戦いで物部氏は滅びますが、傍系が石川氏を名乗り存続します。
次回は馬子と厩戸皇子の政治、そして皇子死後の上宮王家(皇子の一族)滅亡を描きます。