鳳山雑記帳はてなブログ

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飛鳥の戦乱Ⅰ  物部合戦

 遥かなる飛鳥時代(592年~710年)。日本の国体が固まった時代といっても過言ではありません。そして多くの血が流された時代でもありました。
 
 蘇我氏物部氏の対立から始まって壬申の乱後の天武天皇即位まで。厩戸皇子(うまやどのみこ。一般には聖徳太子として知られる)や中大兄皇子など幾多の日本史上のスターを輩出した一方、力がものを言う殺伐とした時代だったのも事実。
 
 
 まず最初は、蘇我氏物部氏の権力争いからはじまった大規模な内乱、物部合戦について述べようと思います。史書では丁未の乱とも呼ばれますが、一般の方は何のことかさっぱり分からないだろうと思い分かりやすいネーミングにしました。
 
 
 
 最初に歴史のおさらいから始めましょう。皆さんは氏姓制度というのをご存知ですか。蘇我臣(そがのおみ)とか物部連(もののべのむらじ)というやつです。
 
 
 これは大和朝廷における豪族を家格によって序列付けたもので上から
 
  臣(おみ)…天皇(当時は大王【おおきみ】)をたすけた大和盆地の有力豪族。蘇我氏・巨勢氏など
 
  連(むらじ)…朝廷に職能を持って仕えた豪族。一種の官僚団ともいえる。大伴氏、物部氏など
 
  伴造(とものみやっこ)…連が高級官僚なら、こちらは中級官僚に当たる。
 
  百八十部(ももあまりやそのとも)…伴造のさらに下。首(おみと)、村主(すぐり)などの姓を持つ。
 
 
 
 あと序列は微妙ながら地方の有力豪族に対しては
 
  国造(くにのみやっこ)…地方の有力豪族。毛野君、吉備君、筑紫君などが有名。
 
  県主(あがたぬし)…成立過程は国造よりも古いと言われる。小規模の集団の族長に与えられた。
 
などがありました。
 
 
 物部合戦とは蘇我馬子物部守屋を滅ぼした戦いですが、一般史書には仏教を取りいれようとした蘇我氏と、守旧派でそれを拒否した物部氏との対立だと捉えられていると思います。
 
 確かにその一面はありましたが、本質は違います。大和盆地の有力豪族の代表として朝廷権力を制肘しあわよくば自分が乗っ取ろうとした蘇我氏と、朝廷権力の増大が自分の権力強化につながると目論んだ物部氏の対立が真相に近いのではないかと考えています。ですから仏教云々が無くても対立は避けられなかったはずです。
 
 
 分かりやすく言えば、豊臣秀吉死去後の徳川家康五大老筆頭)と石田三成五奉行筆頭)の対立に近いかもしれません。
 
 
 ここで当事者の一人、物部一族の当主守屋(不明~587年)についてみてみましょう。物部氏は一般には軍事を司る一族といわれますが、調べてみると軍事は大伴氏の職掌物部氏は司法・警察をつかさどる一族だったようです。
 
 日本の歴史2「古代国家の成立」(直木孝次郎著・中公文庫)によると物とは「もののけ」に通じ古代祭司と政治は一体であったことから祭祀を通じて物部氏司法警察を担当したとされます。
 
 
 物部氏は、まず連の中での権力を握るべく対立する大伴氏を陥れようと画策します。允恭天皇(いんぎょうてんのう)亡きあとの皇位争いで穴穂皇子(のちの安康天皇)側に付き、軽皇子側に付いた大伴氏を攻め滅ぼします。大伴氏はこの時完全には滅びませんでしたが以後没落して行きました。
 
 
 一方、豪族筆頭の蘇我氏はどうだったでしょうか?のちの摂関政治藤原氏と同様皇室に娘を入れ閨閥で権力を握るというオーソドックスな手段を取っていました。
 
 当時の蘇我氏の当主は馬子(551年?~626年)。馬子の二人の姉(妹?)は欽明天皇の后、自分の娘も崇俊天皇の后と二重三重に皇室と結ばれていました。
 
 馬子の姉妹のうち、長女堅塩媛からは用明天皇推古天皇が、次女小姉君からは崇俊天皇が生まれています。
 
 
 両者の対立はお決まりの天皇の後継者争いでした。蘇我氏の強力なバックアップで皇位に就いた用明天皇に対し、異母兄弟の穴穂部皇子(崇俊天皇の兄)が強烈な不満を抱いたのです。どちらも蘇我氏の血を引いていましたが皇子の激しい性格を馬子が危惧していたために選ばれなかったともいわれます。
 
 最初、馬子と守屋は共同戦線を張り穴穂部皇子をバックアップするという形で用明天皇の側近三輪君逆(みわのきみさかし)を攻め滅ぼします。
 
 しかし馬子の方が役者が一枚上で、自分は陰に隠れ守屋が用明天皇の側近を滅ぼしたと讒言し天皇が守屋を憎むように仕向けました。
 
 天皇は即位二年目で病気にかかります。太子には先代敏達天皇の皇子押坂彦人大兄皇子が選べれていました。立場が悪くなっていた守屋は周囲から何か行動を起こすかもしれないと警戒されます。これには陰で馬子の扇動があった事は想像に難くありません。
 
 守屋としては関係の深い穴穂部皇子を擁し一気に立ち上がるべきでしたが、皇子との結託は馬子に阻止されました。後に皇位継承に不満を抱き続けていた穴穂部皇子は馬子に殺されています。
 
 
 守屋は、身の危険を感じ本所地であった河内国渋河郡阿都(八尾市)に引き上げました。蘇我氏物部氏用明天皇亡き後の戦乱に備え互いに軍備を進めます。
 
 しかし朝廷のある大和盆地を握っている蘇我氏の方が強大で多くの豪族たちが馳せ参じました。同じ連でありながら物部氏に圧迫されて勢力を弱めていた大伴氏さえ蘇我馬子側に付きます。これでは八十物部と言われるほど多数の同族を抱えていた物部氏でも不利は否めませんでした。
 
 
 587年4月、用明天皇がついに死去します。守屋は密使を送って穴穂部皇子の決起を促しましたが、蘇我氏の厳しい監視下では皇子は身動きがとれませんでした。
 
 
 一方、馬子は思いきった手を打ちます。穴穂部皇子の弟泊瀬皇子(はつせのみこ)を次の天皇に担ぎ出したのです。これで完全に穴穂部皇子皇位継承の芽は断たれました。
 
 さらに皇室内で隠然たる実力を持つ炊屋姫(馬子の姪、後の推古天皇)が穴穂部皇子と険悪な関係だったのを利用し、姫を動かして「逆賊穴穂部皇子と同母弟宅部皇子、それに与する者を誅せよ」との詔を出させました。
 
 
 
 大義名分を得た蘇我氏側は、大軍を二手に分けて物部氏の本拠河内に進撃させます。蘇我氏側には厩戸皇子ら多くの皇族もつき従いさながら官軍でした。
 
 
 物部氏は掌中の珠の穴穂部皇子を失い、ほとんど打つ手もありませんでした。馬子と守屋の政治力の違いでしょう。物部氏は本拠の渋河、衣摺で激しく抵抗しますが多勢に無勢、守屋は乱戦の中で矢を受けて戦死し軍勢は四散しました。
 
 
 この戦いで物部氏は滅びますが、傍系が石川氏を名乗り存続します。
 
 
 以後、蘇我氏は朝廷内で独裁権力を握り我が世の春を謳歌します。しかし満つれば欠けるが世の習い。絶頂の中に崩壊の芽は隠れているのです。
 
 
 次回は馬子と厩戸皇子の政治、そして皇子死後の上宮王家(皇子の一族)滅亡を描きます。