鳳山雑記帳はてなブログ

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薩摩島津一族  前編

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 鎌倉以来江戸幕末に至るまで家名を保つことは容易ではありません。東の代表が佐竹氏なら西の代表は文句なく薩摩の島津氏でしょう。

 島津氏は鎌倉、南北朝、室町、戦国、織豊期、江戸の各時代を通して有力守護、有力大名として存在します。その生命力には驚嘆するばかりですが、一方「島津に暗君なし」と言われるように、少なくとも時代の要所要所において凡庸な当主が一人も出なかったことは特筆できます。


 島津氏初代忠久は、もと惟宗氏を称していました。近衛家領島津庄(都城を中心に薩摩・大隅・日向にまたがる日本最大の荘園)の家司でありながら源頼朝の寵遇を受け、鎌倉幕府が成立すると薩摩・大隅・日向三カ国の守護に任じられ、同じく筑前肥前豊前守護少弐(武藤)氏、筑後・肥後・豊後守護の大友氏とともに九州三人衆と称されました。


 島津氏が薩摩に下向したのは三代久経の時代でした。これは元寇後の九州警備のためで、同じく多くの関東御家人が西国の自分の領地に下向しました。

 しかし、元寇後の動揺を抑えるため九州では三人衆の本国(薩摩、豊後、筑前)を除いて北条得宗家が守護を独占するようになり、権力を奪われた彼らの不満は高まります。


 各地の御家人の不満は、後醍醐天皇の討幕運動を渡りに船として大きな力となっていきます。元寇で大きな被害を受けながら、外国が相手で恩賞の土地を得られなかった御家人たちは窮乏していたのです。


 五代貞久は、1333年他の九州御家人とともに鎮西探題を攻撃、これを滅ぼします。鎌倉幕府滅亡後、恩賞として悲願の大隅・日向守護職を回復した貞久でしたが、その後足利尊氏が反逆すると島津氏も武家方としてこれに従います。

 少弐・大友とともに尊氏の上洛作戦に同行し湊川の勝利に大いに貢献しました。


 ところが、九州に懐良親王が下向しこれを肥後の有力豪族菊池氏が助けるようになると島津氏も国元薩摩に帰ってこれに対抗しなければいけなくなりました。


 島津貞久は、戦乱の中で嫡男宗久を失い次子頼久もまた犠牲にしていました。1363年、死の床にあった貞久は島津氏の基盤を固めるため三男の師久を薩摩守護、四男の氏久を大隅守護とし兄弟協力して難局に当たるよう遺言します。両家はそれぞれの官位から総州家(師久の官位、上総介から)、奥州家(氏久の官位、陸奥守から)と呼ばれます。


 当初は兄弟協力し合って戦乱に立ち向かっていましたが、兄弟の領地が微妙に入り組んでいたのが原因で紛争が絶えませんでした。

 というのも薩摩を貰い、嫡流として守護所碇山城(鹿児島県川内市)を居城とした師久に対し、弟の氏久は大隅のほかに、薩摩の重要拠点ともいうべき東福寺城(鹿児島市)を手放さなかったからです。


 兄弟が南北朝をどのように生き抜いたのかは不明ですが、国外遠征は主に氏久が担当していたようです。

 氏久は、九州を席巻していた懐良親王の征西将軍府に対抗するために幕府が送り込んだ九州探題今川了俊に従い各地を転戦します。


 ところが1374年事件が起こります。九州南朝主力菊池氏の軍勢を追い詰めた北朝軍は、本拠菊池の玄関口台(うてな)城にこもった敵を撃滅するため、水島に主力を集めます。了俊はここに九州における北朝方をことごとく集めるつもりでしたが、九州探題と利害がぶつかる筑前守護少弐冬資は参陣を渋ります。


 困り果てた了俊は、同じ九州三人衆の一人ということで、島津氏久に依頼して冬資を呼び寄せることにしました。ほかならぬ島津氏久の頼みということでやってきた冬資でしたが、酒宴の席であろうことか了俊は冬資を暗殺してしまったのです。


 これには氏久も烈火のごとく怒りました。面目丸潰れでした。「このような卑怯な大将に従ういわれはない」とさっさと陣払いし、本国へ帰ってしまいました。


 以後氏久は、九州探題と敵対します。了俊の身から出た錆でしたが、これで早期の九州統一は不可能になりました。

 今川了俊は、島津の内紛を誘うため兄師久を懐柔しようとしますが、さすがに島津一族、これを撥ねつけます。内部では争っても外敵には共通であたるという強い決意を持っていたのでしょう。総州家・奥州家の協力関係は師久が死んで子の伊久が継いでも変わりませんでした。

 1376年今川了俊は、島津氏を討伐するため日向に侵入しました。が、氏久は寡兵をもって蓑原の合戦で今川の大軍を撃破(一説では痛み分け、ただ今川軍は損害が大きく撤退したとも?)、領国を守り抜きます。
 
 了俊は氏久の大隅守護を解任、嫡男義範を派遣して大隅国に侵攻させました。氏久は粘り強く抵抗しますが島津氏と旧来から敵対していた国人が今川方に付く状況をみて、ようやく和睦します。


 これで一安心した島津家でしたが、外敵の脅威がなくなると内輪もめをするのは歴史の習いかもしれません。

 1376年、氏久60歳で死去。嫡流総州家は伊久、奥州家は元久が当主となりました。嫡流総州家は当主伊久とその子守久が家督を巡って骨肉相食む争いを始めていました。

 元久はこれを調停すべく奔走しましたが、あろうことか伊久は憎っくき息子に継がせるよりはと、従兄弟の元久総州家の家督を与えたのです。

 驚くべき親子喧嘩でした。これで嫡流の地位を失った守久は激しく怒り、抗争を激化させます。一方棚ぼたで嫡流を継いだ元久は、室町幕府からも薩摩・大隅両国守護に任じられます。

 泣きっ面に蜂の守久は、戦いに負け出水に引きこもり失意のうちに世を去りました。ただ長生きはしたみたいで1422年元久の弟久豊の子で宗家九代を継いだ忠国に攻められ海路肥前に逃れるという事件もありました。彼がどこで死んだのかは不明ですが、1430年守久の孫久林が忠国の急襲を受け自殺、ここに元嫡流、島津総州家は滅亡しました。


 総州家に代わって嫡流になった奥州家でしたが、元久も1411年陣没し彼の死後またしても家督争いが起こります。元久が後継者に指名していた甥の伊集院熙久を元久の弟(異母弟?)の久豊が追放し家督を継ぎました。


 島津宗家は以後、久豊の系統が続きます。この時代に島津氏の守護領国制はほぼ固まったとされます。幕府は強引な久豊を嫌いましたが、ほかに薩摩・大隅の守護適任者がいなかったので渋々認めた形でした。

 後編では恒例の島津兄弟の争い、その後の宗家の弱体化、伊作島津家の台頭、島津四兄弟の活躍を描きます。