この若者こそ、弓の名手にして、その武勇によって匈奴から「漢の飛将軍」と呼ばれ怖れられた李広その人でした。
文帝、景帝、武帝と三代に渡って仕え北辺の太守を歴任し対匈奴戦に生涯を費やします。けっして水際立った指揮をするわけではありませんが、部下からは慕われた将軍でした。下賜された恩賞はそのまま部下に与え、飲食もつねに部下と同じものを食べました。行軍中、たまたま泉を発見すると、部下が全員飲み終わるまで自分は決して飲もうとしませんでした。食料も部下に全員いきわたってから初めて自分が手をつけたそうです。
彼と同時代人の司馬遷は、李広を評して「生真面目で、田舎くさい風貌でろくに口もきけなかった」と書いています。朴訥とした人柄が想像されます。
武帝の時代、衛青、霍去病らが華々しい活躍で軍功をあげると、地味な李広はその脇役にさせられます。要領も悪く出世もしませんでした。
あるとき衛青を大将軍として、大規模な匈奴討伐軍が実行されます。老いた李広はここを死に場所と定め、先鋒を願い出ます。しかし衛青はこれを危ぶみ、搦め手からの侵攻を命じました。ところが軍には道案内もいず、道に迷って合流する期日に遅れてしまいます。
衛青は、李広に遅れた理由を出頭して弁明せよと命じました。
李広は「このわしは、元服した時から七十余度匈奴と戦っている。今幸いにして大将軍に従い匈奴の単于と戦えると楽しみにしておったが、大将軍はそれがしの進路を変え、回り道で遠い上に迷ってしまった。これも天命であろう。歳も六十になった。いまさら、文章を扱う小役人の相手をするのはまっぴらだ。」
そう言うと、自ら剣を抜き自分で、首を刎ねてしまいました。
この事を伝え聞いて、李広を知っているものも、知らないものも皆涙を流したといいます。
「桃李もの言わざれども下自ずから小蹊(こみち)を成す」
司馬遷は、李広の死を惜しんでこの言葉で締めくくっています。