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立見尚文      - 明治の男は偉かった! -

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立見 尚文(たつみ なおふみ、弘化2年7月19日(1845年8月21日) - 明治40年(1907年)3月6日)。通称は鑑三郎。号は快堂。変名に倉田巴。桑名藩士、のち陸軍大将。男爵。父は桑名藩士町田伝大夫。

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 司馬遼太郎の不朽の名著『坂の上の雲』を読まれた方なら、旧幕府軍出身ながら無類の戦上手で日清・日露両戦役で活躍した名将、立見 尚文のことはご存知でしょう。

 今月号のWiLLで、渡部昇一先生が立見のエピソードを紹介されていたので興味深く読みました。かいつまんで説明すると


 皇族の小松宮随行してロシアの首都サンクトペテルブルグを訪問した時の事。皇族は国賓待遇ですが国際慣例として随員にも勲章が授与される事になっていました。通常自国で授けられている勲章より1級上のものが与えられるのですが、どういうわけか勲四等の立見に神聖スタニスラウス勲四等が授与されてしまいます。

 あきらかに手違いだったので、立見はロシアに勲章をつき返そうとします。それを聞いた日本の公使館員はロシアとの関係がこじれるからと大慌てで立見を説得しました。

 しかし立見は
「馬鹿を申すな。このような態度だからまともな外交ができないのだ」と立腹して勲章を受け取ろうとしません。

 今度は公使自身が飛んできて
「私の知る限りでは、いったん授与された勲章と勲記を相手側につき返すという話など聞いた事がない。これを先方に伝える事も憚られるので何とか受けてもらえないだろうか?」
と説得しますが
「何を言われるか公使。そのような弱腰だからわが国は舐められるのではないか。公使館がやっていただけないなら自分で返上するのみ」と断固拒否しました。

 この話を聞いた小松宮も偉い方でした。「これは立見のほうが正しい」と言われたため、進退窮まった公使は仕方なく恐る恐るロシア外務省に申し出ます。


 驚いたロシア外務省も国際慣習を無視したとあっては面目丸潰れです。日本公使館にはロシア章勲局の幹部が出向きました。重大な手違いだったと陳謝して2種類の勲章を渡して平謝りに謝って帰っていきました。

 開いてみると神聖スタニスラウス二等勲章と神聖アンナ二等勲章です。立見が毅然たる態度を示したためかえってロシア側が敬意をしめし破格の扱いをいたのでした。

 謁見の時、皇帝ニコライ2世もわざわざ立見に話しかけてきたほどです。これは日露戦争のずっと前、日本が弱小国と思われていたときのことでした。

 いかがでしたか?きちんと筋を通して毅然たる態度を貫けば侮られることなどなく、かえって尊敬を受けるという好例ではありませんか。そして今の日本に決定的にかけているのはまさにこれです。

 この話は特に日本の政治家と外交官に読んでほしいと思います。