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『ヤルムークの戦い』と「アッラーの剣」ハーリド

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 7世紀初頭、ローマ帝国とペルシアの東西両大国の戦いは実に700年にも及んでいました。一進一退の攻防は途中に平和を挟んで微妙なバランスを保っていたのです。
 ササン朝ペルシャの攻勢を撥ね返し、シリアの地を久々に奪還した時のビザンツ皇帝ヘラクレイオス。しかし、そのころ南のアラビア半島にはムハンマドを開祖とするイスラム帝国が勃興していました。

 イスラム帝国の発展は、当時ビザンツ(東ローマ)とササン朝が戦争状態にあり、南方にかまっている状況になかったという幸運が寄与していました。そしてムスリムの騎兵たちは、その幸運を最大限に生かす力をもっていたのです。

 「アッラーの剣」の異名をもつハーリド・イブン=アル=ワリード。生年は不詳。初めは異教徒の側で戦いましたが、のちイスラム教に改宗。ムハンマドの長子ザイドを指揮官とするシリア遠征に参加。ザイド戦死後は残軍をまとめメディナへ帰還、このときムハンマドから「アッラーの剣」の称号を授けられます。

 ハーリドはムハンマドの死後、跡を継いだアブー・バクルの命を受け再びシリア征服の遠征に出撃しました。率いる兵はアラブの精鋭、騎兵4万。
 パレスティナビザンツの前哨線を突破すると主邑ダマスカスを包囲、6ヶ月の攻防の末、これを降しました。この突如現れた危機に皇帝ヘラクレイオスは、弟テオドロスを総大将に5万(一説には20万)の兵力を与えて迎え撃たせます。

 両軍は、ヨルダン北西部、ヤルムーク河畔で対峙しました。小競り合いののち、636年8月20日、いよいよ雌雄を決するべく両軍は出撃します。夏の砂漠地帯、焦熱地獄で体力を消耗させつつあるビザンツ軍に対し、アラブの騎兵は慣れていました。
 また、砂漠の戦闘に長けたハーリドが指揮することもイスラム側が有利でした。戦いはイスラム軍が北側に回りこんでヤルムーク河とラッカード河の合流する三角地点にビザンツ軍を追い詰めたことにより勝負ありました。

 河を背にしたビザンツ軍は絶体絶命です。頑強に抵抗するビザンツ軍でしたが、先陣の一角が崩れると雪崩をうつように険しい渓谷に追い落とされました。かろうじて対岸に渡ることのできた兵士も、先回りされたアラブ騎兵に殺戮されます。総司令官テオドロスをはじめ実に4万人の戦死者を出してビザンツ軍は大敗しました。

 これによってビザンツ帝国は、海陸交通の要衝、シリアを失陥します。アンティオキアで敗戦の報告を受けた皇帝ヘラクレイオスは、退却し小アジアに抜けるタウルス峠に差し掛かったとき
「さらばシリアよ!そなたは敵にとってなんとすばらしい国土であろうか」と叫んだと言われています。

 一方、シリアを得たことはイスラム帝国の発展にとって大いに力になりました。この後ササン朝を滅ぼし空前の大発展を遂げます。
 大勝利の英雄ハーリドはどうなったでしょうか?第2代カリフとなったウマルと不仲だったため、決戦前夜彼の罷免を告げる書簡を受け取っていました。勝利の後、この事実を公表したハーリドは潔く引退します。シリアの地で隠棲し、その5年後ひっそり息を引き取ったと伝えられています。