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古代支那の食事
私の悪い癖は、一つの事を調べるとその関連項目も調べなくては気が済まないというものです。前記事で淮河以南の華中と華南地方は稲作の一大産地を抱えているので古代から米を食べていたが、淮河以北では何を食べていたか謎だと書きました。一応小麦を粉にして麺にしていたのではないかと推定しましたが、その後調べると小麦を粉にして捏ねたり、蒸したりする製法は唐代以降だそうです。そのころ麺や餃子、肉まんなどができたのでしょう。
ではそれまで中原(黄河中流域)の人たちが何を主食にしていたかというと、それは粟(あわ)だったそうです。そういえば治粟都尉という役職があるのをすっかり忘れていました。楚漢戦争時、韓信が一時就任していますよね。治粟都尉は軍の兵糧管理をする役職。という事は主食も粟だと分かります。
古代支那の人々は、主食である粟を甑(こしき)という土器で蒸して食べたそうです。昔地元のうどん屋で粟飯を食べた記憶があるんですが、意外に美味しかった記憶があります。米があるのでしょっちゅう食べたいとは思いませんが、たまには良いと思えるほどの味でした。すくなくとも麦飯のぱさぱさした感じはありません。雑穀ではあるんですが、粟はなかなか美味しいですよ(笑)。
古代支那の人々は、肉類も現代とほとんど変わらないものを食べていたそうです。六畜といって牛、豚、羊、馬、狗、鶏。狗だけはちょっと勘弁して欲しいですが現在でも大陸や半島の人は食べていますよね。調味料も酢や醤(ひしお)はありました。醤はペースト状の調味料で現代日本の味噌と醤油の中間くらいの調味料だったと思います。現在でも『ジャン』と呼ばれていますよね。
調理法も、焙ったり煮たり蒸したりしました。羹(あつもの)は肉や野菜を入れて作った濃厚な熱いスープ、膾(なます)は薄く切った魚肉を酢に浸した冷たい料理の事。『羹に懲りて膾を吹く』の語源です。
変わった調味料では、柑橘類の皮を干した陳皮(ちんぴ)のような物もあります。陳皮は今では漢方薬の原料になっています。日本で和菓子の一つ羊羹ももともとはその字の通り羊の羹のこと。羊羹は禅宗の僧が伝えましたが、仏教では肉食を禁じていたので精進料理として小豆をくず粉や小麦粉と混ぜて作ったのが和菓子の始まりだそうです。
梅干しも古代支那が最初。もともとは梅を酢に漬けて梅酢を作っていたそうですが、その副産物が梅干しだそうです。こうしてみると現在の中華料理に通じる材料、調理法が古代からあったんですね。久しぶりに粟飯が食べたくなりました(笑)。
漢代の貨幣と官僚の俸給
古代支那春秋戦国時代の貨幣と言えば、斉・燕・越などで使われた刀銭、楚で使われた蟻鼻銭、秦で使われた圜銭(かんせん)があります。圜銭とは円形の貨幣の中心に丸あるいは四角の穴をあけた貨幣でのちの支那王朝が鋳造した貨幣の基本形となりました。刀銭も穴が開いており、どうして穴をあけるかというと紐で結んで一括りにするためです。日本でも一文銭を紐で千枚繋げて一貫文にしましたよね。
当然、当時は政府に信用がありませんから金属そのものの価値が貨幣の価値になる秤量貨幣でした。これがのちに政府の金保有量で貨幣や紙幣の価値を保証する金本位制になり、現在では政府の信用で紙幣貨幣の価値を保証する信用貨幣になっていきます。
前漢武帝の時代、度量衡の五銖(ごしゅ 1銖は0.59g)の重さを基本とする五銖銭が鋳造されました。武帝の時代は前後漢を通じて最も栄えた時代だったこともあり、この五銖銭が基本貨幣となり三国時代、南北朝時代、隋代まで使用されます。歴代王朝は独自の貨幣を鋳造しようとしましたが、政府の信用がないこともありほとんど失敗します。三国の一つ蜀では、五銖銭100枚の価値を持つ「直百五銖」を発行しますが、実際は五銖銭二~三枚分の重量しかなく、蜀の経済は大混乱します。蜀に経済に強い官僚がいなかったのでしょうが、この経済的疲弊が蜀滅亡を早めたとも言われます。
ところで、漢代の官僚の俸給は穀物と銭で支払われました。この割合に関しては諸説あり半々という説もあれば時の政府の都合によって割合が変わったという話もあります。もっとも高い俸給は三公クラスが貰う万石でした。正式には石ではなく斛(こく)の字を使うのですが紛らわしいので石で統一します。これは月俸350石、年俸で言うと4200石にあたりました。次いで九卿クラスの中二千石(月俸180石)、執金吾、郡太守クラスの二千石(月俸120石)、中郎将、校尉の比二千石(月俸100石)というように十等級に分けられていたそうです。これを秩石制と呼びます。
支給される穀物も、日本のように米だけではなくおそらく麦が主流で稗、粟などの五穀だったと思われます。東晋から始まる南北朝の南朝だけは米の一大産地を抱えているだけに米が支給されたはず。支那大陸は南船北馬と言って淮河を境に麦作地帯と米作地帯が分かれるからです。全然関係ない話ですが、東洋史学者岩村忍先生の『アフガニスタン紀行』によると、現在のパキスタンからアフガニスタン東南部にかけての米麦作の境界近くでは豪族や富裕層は米を食べ、一般民衆は麦を食べたそうです。やはり米の方が美味しいんでしょうかね?支那の高級官僚もわざわざ江南地方から米を取り寄せて食べていたのかもしれませんね。
ところで当時の麦はどのように食べていたのでしょうか?麺にしていたのか、それとも焼餅みたいにして食べていたのか?非常に興味があります。米みたいに炊いてもあまり美味しくないし…。日本で麦飯というと戦時中の貧しい食べ物というイメージですからね(苦笑)。
後漢、三国時代の地方行政
マニアックな記事が続いて申し訳ない。過去記事で後漢時代の各州の人口を書いたんですが、その際地方行政の仕組みに関し説明不足だったかなと思い改めて記すことにします。一応過去記事の肝である人口表を載せておきます。
◇幽州(ゆうしゅう)…204万
◇并州(へいしゅう)…70万
◇冀州(きしゅう)…593万
◇青州(せいしゅう)…370万
◇兗州(えんしゅう)…405万
◇徐州(じょしゅう)…280万
◇豫州(よしゅう)…618万
◇司隷(しれい)…310万
◇涼州(りょうしゅう)…42万
◇楊州(ようしゅう)…434万
◇荊州(けいしゅう)…626万
◇益州(えきしゅう)…724万
◇交州(こうしゅう)…110万
漢代の地方行政は、大きな方から州、郡、県が設置され、例えば冀州には魏郡、鉅鹿郡、常山郡など9個の郡がありました。郡の下に複数の県があるわけですから俗に支那四百余州という場合の州は県を指しているわけです。通常、治安・行政を担当するのは郡の長官である太守で州の長官刺史は郡太守の監察権しか有しませんでした。
ところが、日本において同じような立場であった鎌倉時代の守護が南北朝、室町期にはその国の支配権を握るのと同様、後漢末期の刺史は監察権ばかりか州の行政権まで握るようになります。さらに後漢末期益州(現在の四川省)の刺史となった劉焉(りゅうえん)は朝廷に上奏し刺史に軍事警察権まで有する牧の設置を認めさせます。三国志に詳しい方ならご存知の通りこの劉焉、のちに劉備に益州を乗っ取られる劉璋の父です。劉焉はなかなか野心家だったらしく益州に赴任すると牧の地位を最大限に利用し独立勢力を築くのです。お人好しの息子とは大違いですね。
後漢十三州と言われますが、そのうち首都洛陽と旧都長安を含む一帯は司隷とよばれ刺史ではなく司隷校尉が支配しました。通常牧で四品、刺史で五品の位階であるところ司隷校尉は三品の高官でした。三品と言えば中央政府では尚書令、中書令、侍中に匹敵する高い地位で、それだけ首都圏の行政が重視されたという事でしょう。三国志ファンなら河南尹という官職を聞いたことがあると思います。これは首都洛陽を含む河南郡の長官で、位階は三品でした。通常の郡太守は五品なので驚くべき地位の高さです。
司隷校尉と河南尹、同じ三品ということで互いにやりにくかっただろうと想像します。ちなみに劉備が初めて官職を与えられたのは安熹県尉。小さな県の警察署長くらいの役職で位階は最下層の九品。こんな安月給の卑役で都の悪徳役人に賄賂を要求されたら誰でもブチ切れるわなと納得します(笑)。演義では賄賂を要求した督郵(とくゆう 監察官の職)を殴ったのは張飛になってますが、正史では劉備本人でした。
魏官制
非常にマニアックで申し訳ないんですが、せっかく作ったので記事にしました。まだまだ未完成なんですが、三国時代魏の官制です。
一番左の官品というのは日本でいうところの位階にあたり、一品がだいたい日本の正一位~従一位に当たります。ちなみにこの九品は陳羣が基本を作りました。何故か三国志演義には出てきませんが、名門潁川陳氏出身で演義で活躍した徐州の陳珪、陳登親子とは遠い一族です。徐州時代の劉備に仕えたこともありました。陳羣が作った九品官人法はそれまでの郷挙里選に代わって科挙が一般化するまで歴代王朝の官吏登用の基本制度となります。
三公というのは周王朝から始まる最高の官職で日本で言えば太政大臣、左大臣、右大臣クラスに当たります。このうち相国というのは非常設の最高官職で共和政ローマで言うなら独裁官、江戸幕府で言うなら大老です。実際の三公は太尉(軍政を司る)、司徒(行政を司る)、司空(監察を司る)が担当しました。
九卿(きゅうけい)ももともとは実務を司る重要な役所でしたが次第に名誉職化し尚書省から発展した六部にとって代わられました。
尚書省(詔勅を実行し行政を司る)、中書省(詔勅を起草)、門下省(詔勅を審議)は、三公が次第に名誉職化したのに対し実際に行政を司る部門となりました。唐代には尚書省が拡大しその中から実際の行政機関となった六部(戸部、吏部、礼部、兵部、刑部、工部)が独立します。中書省は門下省と合体し、その長官である中書令や侍中が事実上の宰相となって行きました。
曹操が就任した事でもおなじみの録尚書事は常設ではなく官僚の第一人者が加官される役職で、事実上の宰相となりました。曹操の代名詞と言えば丞相ですが、これは司徒(大司徒)と被るので漢代に廃止されていましたが後漢末の建安13年に曹操が自ら復活させ就任しました。丞相は宰相と同義です。
武官も本来なら大将軍が最高位、次いで驃騎(ひょうき)将軍、車騎将軍、衛将軍と続きますが、三国時代から西晋にかけて名誉称号と化していきます。それに代わり大都督中外諸軍事が軍の最高司令官となりました。地方では例えば都督揚州諸軍事、都督雍涼諸軍事という軍司令官が担当し、その名誉称号として将軍が与えられていきます。この都督制度は唐代には節度使に発展します。
州の行政を担当する刺史と都督がいる場合、都督が軍司令官として刺史を指揮命令しました。後漢末に行政と軍事を司る牧という官職が出現しましたが、戦争が常態化した三国時代にはあまりに地方官に権限を与えすぎると反乱を起こす危険性があるとして都督と刺史とで権力の分散化を図ったのでしょう。
よほど三国志好きか支那王朝の官職に興味のある方以外はチンプンカンプンだと思いますが、せっかく作ったのでご紹介しました(笑)。