しかしその後徳川家康が大改修したため当時の原型は残っていません。ただ記録などでなんとか当時の姿を想像できるくらいです。
太田道灌【1432年~1486年。室町時代の武将。武蔵国守護代。摂津源氏の流れを汲む太田氏。諱は資長。扇谷上杉家家宰太田資清(道真)の子で、家宰職を継いで享徳の乱、長尾景春の乱で活躍した。江戸城を築城した武将として有名である。】(ウィキペディアより)
15世紀中ごろの江戸地方は海岸線が大きく後退し、日比谷入り江が大きく入り込んでいました。太田道灌はこの日比谷入り江に東側で接し、西側を川(隅田川の支流?)で挟まれた舌状台地の先端に目をつけ築城します。
これが古江戸城です。1457年(長禄元年)のことです。
当時も江戸は交通の要衝であったようで、江戸湊と日比谷入り江に挟まれた岬である八重洲には城下町が形成されました。
記録では、二十の城門を持ちそのうちの五つは虎口(こぐち。城門がある区画)を石垣で固めていたそうですからなかなかの規模です。塁壁も急崖だったといいますから難攻不落の名城でした。
有能で世間の評判も高く遠く京からの来客さえあった道灌に対し、主君定正は蔑にされ無視されていると僻んだのでしょう。京の文人墨客は当時相模にあった扇谷上杉家の屋敷を素通りして道灌の江戸城を訪問してたそうですし。しかも道灌は難攻不落の江戸城に籠っている。
そのうち自分の地位を取って代わられるという恐怖が、暗殺という暗い手段に訴えた真相かもしれません。もし謀反を起こされても戦では絶対敵いませんからね。
また道灌も己が才を誇っていたふしがあります。天才の自分から見ると周りの人間が馬鹿に見えて仕方なかったのでしょう。その驕慢が自らの身を滅ぼしました。