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世界史英雄列伝(23) 曾国藩 富貴を全うした名将

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曾国藩 1811年~1872年 中国清朝、政治家・軍人

1811年 湖南省湘郷県に生まれる。
1838年 進士に合格。
1851年 太平天国の乱勃発。
1852年 礼部右侍郎在職中に母の死をうけ、喪に服するために帰郷。
    朝廷の命をうけ、郷勇(義勇軍的な私兵)を組織。後の湘軍になる。
1854年 湖北省湘潭で太平天国軍に大勝。
1860年 両広総督・欽差大臣になる。
1862年 李鴻章、湘軍を手本に淮軍をつくる。
1864年 湘軍、太平天国の首都天京(南京)を攻略、乱を鎮圧する。
    功により侯爵に叙勲。
1870年 漢人では初めて、地方官の最高位、直隷総督になる。
1872年 死去。

 論語の一節に「死生命あり、富貴天にあり」という一文があります。私鳳山が好きな言葉で、座右の銘にしています。この語句を見るたびに思い出すのは、太平天国の乱を鎮圧した曾国藩という人物です。彼は乱鎮圧後も、陰謀うずまく朝廷を生き抜き、位人臣を極め、失脚することなく富貴のまま一生を終わりました。別にあくせくすることなく、自然体で時代の命ずるまま行動し、終わりを全うしたのですから、理想的な生き方です。まったく羨ましい生涯でした。

 曾国藩は礼部右侍郎(日本で言うなら文科省事務次官)在職中に、母の死をうけ、喪に服するため帰郷します。もしこれがなかったら、大臣くらいには出世し、歴史には残らずとも安泰な一生を送ったでしょう。
 しかし当時、洪秀全がおこしたキリスト教を中国化した上帝会が反乱を起こします。太平天国と名乗り、本拠地広州から北上、湖南、湖北を襲い南京を落として天京と称し首都にします。初めは数千人だった反乱は、南京攻略時には20万人にも膨れ上がっていたそうです。
 これに対して清朝は討伐軍を送りますが、敗退を繰り返します。あれだけ精鋭を誇った清の八旗兵でしたが、貴族化し堕落していたので、もはや使い物になりませんでした。

 事態を憂慮した清政府は、ちょうど曾国藩が湖南に帰省していたを思い出します。朝廷は彼に命じて郷勇(義勇兵的な私兵)を編成し、反乱鎮圧にあたらせます。後に有名な「湘軍」となる郷勇は、まず幹部を曾国藩の弟子、縁者とし、彼らに人材を集めさせ軍隊として組織させます。地縁、血縁による強固な軍隊となったのですが、問題は、曾国藩個人に忠誠を誓う私兵であったということです。のちにこのことが清朝の命取りになるのですが、今の状況ではそんなことは言っておれませんでした。

 ところで、太平天国の強みはなんだったのでしょうか?それは、軍規がしっかりしていたという事です。「滅満興漢」をスローガンにし、キリスト教的平等主義にのっとった「天朝田畝制度」といわれる土地の国有化をはかった一種の原始共産制を制度として取り入れようとします。むしろ、政府軍のほうが略奪・暴行を激しく繰り返し人心はどんどん離れていきました。男女平等、アヘン・纏足の禁止などを謳った太平天国のほうが民衆に支持されていたのです。

 南京攻略後、太平天国は北伐の軍を発します。清朝正規軍は各地で敗れ、モンゴルの部隊を使ってようやく撃退する始末でした。このころになると太平天国自体に自壊作用が起こります。当初の理想はすばらしかったのですが、天京という拠点を得ると、幹部たちが腐敗し権力争いを始めました。乱の指導者、洪秀全にはこれを収集する力はなく、降伏した清兵、匪賊などで膨れ上がった軍隊は、質を落とし、中国伝統の略奪・暴行をくりかえす軍隊に成り下がりました。また列強の租界がある上海を攻撃したのも致命的でした。上海の官僚、商人が資金を供出し西洋式武器を装備した傭兵を組織します。最終的に英国人ゴードンを指揮官とし、常勝軍と名付けられます。常勝軍は強く、上海を抜く事はできませんでした。

 一方、湖北・湖南戦線では曾国藩の湘軍が太平天国軍と死闘を繰り返していました。何度か曽国藩は敗北し、そのたびに自殺を考えたそうです。しかし湖北省湘潭の戦いで大勝利をえます。また曽国藩の幕僚であった李鴻章は、故郷淮南に帰って、湘軍にならった淮軍を組織します。これらの軍隊によって太平天国包囲網は徐々に狭められました。それでも鎮圧には10年かかります。
 1862年、太平天国の首都天京が湘軍のよって陥落させられました。ようやく乱は鎮められます。残党の平定にはまだ時間がかかりますが大勢は決しました。

 乱鎮圧後、清政府は軍閥と化した曽国藩らを警戒します。曽国藩は直ちに湘軍を解散、清朝官吏の道に復帰しました。政府は曽国藩に気を使い出世させます。漢人で初めて地方官としては最高位にあたる直隷総督に任じました。富貴のまま曽国藩は安泰な晩年を送ります。

 しかし、李鴻章は違いました。最期まで淮軍を保有し続け、軍の力を背景に朝廷内の最高実力者になりあがりました。日清戦争で日本軍が戦ったのは、李鴻章の私兵がほとんどであったことは意外と知られていません。
 李鴻章が自分の軍隊の消耗を恐れて早期講和に乗ってきたという事実もあります。
 どちらにしても、太平天国の乱が、清朝滅亡の引き金になったことは間違いありません。