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歴史のIF第6弾!「平将門 坂東に君臨す!」

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 久しぶりに懐かしの大河ドラマ風と雲と虹と」の総集編を見ました。いやあ面白い。しかし見ていくと平将門は戦は上手いけど戦略や政略でいま一つという感じが否めません。もっと上手くやったら関東独立国ができたのではないかともどかしい思いで見ていました。そこでIFシリーズ第6弾は平将門藤原純友の「承平天慶の乱」を取り上げます。



 もしご存じない方がいるといけないので

承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん)は平安時代中期に、ほぼ同時期に関東と瀬戸内海で起きた平将門の乱(たいらのまさかどのらん)と藤原純友の乱(ふじわらのすみとものらん)の総称である。一般に承平・天慶の両元号の期間に発生した事からこのように呼称されている。
関東では平将門が親族間の抗争に勝利して勢力を拡大。やがて受領と地方富豪層の間の緊張関係の調停に積極介入するようになり、そのこじれから国衙と戦となって、結果的に朝廷への叛乱とみなされるに至った。将門は関東を制圧して新皇と自称し関東に独立勢力圏を打ち立てようとするが、平貞盛藤原秀郷ら追討軍の攻撃を受けて、新皇僭称後わずか2ヶ月で滅ぼされた。

瀬戸内海では、海賊鎮圧の任に当たっていた藤原純友が、同じ目的で地方任官していた者たちと独自の武装勢力を形成して京から赴任する受領たちと対立。結果として蜂起に至った。西国各地を襲撃して朝廷に勲功評価の条件闘争を仕掛け、これを脅かしたが、平将門の乱を収拾して西国に軍事力を集中させた朝廷軍の追討を受けて滅ぼされた。】(ウィキペディアより)

というものです。


 純友はともかく、将門には良い軍師がいませんでした。不平皇族の興世王くらいしか文官はいませんでしたし、彼も学はあっても後先を考えない無鉄砲なところがあってとても軍師は務まりません。

 一方当時の関東には下野国(現栃木県)に四千騎の兵力を集める実力を持つ田原藤太(たわらのとうた)藤原秀郷常陸国(現茨城県)には坂東平氏の実力者・常陸平太(ひたちのへいた)平貞盛がいました。

 平貞盛は知略はあっても戦はからっきしだったのでそれほど驚異ではありませんでしたが、一方秀郷は知勇兼備の恐るべきライバルでした。

 この二人が朝廷側についたために将門の乱は鎮圧されたといっても過言ではありません。朝廷の追討令が出て追討使が関東に派遣されても、実行部隊である武士団の協力がなくては何もできないのです。

 反乱が成功するにはこの二人を何とかすることがカギとなります。


 もともと桓武平氏内の土地争いが発端の乱でしたし、将門は貞盛の父で、将門の叔父でもある平国香を殺しているので貞盛にとっては不倶戴天の敵でした。一方秀郷がなんで将門の敵に回ったかですが、諸説ある中で私は秀郷が将門の乱の将来性に見切りをつけた、という説をとります。

 関東は勿論、当時の日本は公地公民の制が崩れ大貴族や寺院が荘園を日本各地に設け、農民も朝廷の苛斂誅求の苦しさから土地を逃げ出し、荘園の家人となることで天皇中心の律令体制はは完全に破たんしていました。もともと律令体制を守るべき貴族たちが競って荘園を作っていたのですから話になりません。


 結局はそれが自分達の支配体制を根底から覆すことになるのですから自業自得ですが、庶民たちは朝廷の無能と貴族たちの横暴に強い不満を持っていました。だからこそ将門の乱は当時の関東の住民たち(武士や農民を含む)に大歓迎されたのです。


 では将門はどうやったら成功したのでしょうか?考えられることは関東の実力者である藤原秀郷平貞盛をなんとかすることです。もちろん味方にすれば万全なのですが、特に親の仇の貞盛は絶対に靡かないでしょう。そして貞盛を何とかしない限り、秀郷もまた靡かない。


 実は貞盛に関しては何とかならなくもないのです。親の仇とはいいながら貞盛は、もともと父の国香やほかの叔父たちが京都に出仕して将門が留守の間に、その土地を騙し取ったのが原因だと分かっていたので一時は融和の姿勢を見せていたのです。
 しかし、叔父の平良兼・平良正らに「嫡男のくせに親の仇を討たないのか?」と詰め寄られやむなく参戦したという経緯がありました。そのため当初は戦意が低く一時は将門の軍勢に敗れ、碓氷峠を通って関東から逃げ出すということもありました。

 そして朝廷の命を受けひそかに根拠地の常陸で挙兵するも失敗、命からがら下野の藤原秀郷のもとに逃げ込みます。しかしそこからが貞盛の凄いところで、尾羽打ち枯らした身であるにもかかわらず、堂々とした態度を崩さず秀郷に利害得失を説いて朝廷の側にたった挙兵を促すのですから大したものです。

 結局これが将門の命取りになりました。秀郷・貞盛の連合軍に敗れた将門は戦死、反乱は潰えたのです。


 ここまで読まれて、反乱の成否はこの平貞盛をなんとかする事だと理解されると思います。貞盛を倒すチャンスは何度もありました。

 最初の挙兵で敗れた時もそうですし、密かに常陸に潜入して蜂起した時もそうです。史実では無類の強運で生き延びたわけですが、どこかの時点で貞盛を討ち取っていたらどうでしょう?

 貞盛さえ倒せば、他の平良兼・平良正らは無能なのでどうとでもなります。朝廷の追討軍もその軍事力自体がないのですから何もできないでしょう。将門の武威を示せば東山道東海道の武士団もいくら朝廷の命とはいっても参戦を渋るでしょう。そして下野の秀郷は孤立、味方には付かないにしても中立は保つと思います。貞盛を倒した時点で秀郷に使者を送っておくと万全ですね。
「味方にならずとも中立を保ってくれれば攻撃しない」と。


 何とかして貞盛を倒す。これができれば数年で鎮圧されるということはなかったでしょう。当時の関東や奥州は名馬の産地で主力は弓を主武装とした準重装騎兵でした。東ローマ帝国のカタクラフトとまではいかなくともかなり強力な兵でした。日本においては当時最強の軍事力だったと言えます。

 将門陣営としては、関東各地に少数の騎兵を数多く派遣して貞盛を追い続けると共に莫大な懸賞金をかけて「貞盛を殺すかとらえた者には恩賞を与える」と言ったら成功したかもしれません。

 いや、史実でもそうしたかもしれませんが徹底できてなかったのでしょう。だからこそ常陸への侵入を許したのです。どう考えても将門の支配地域である上野や武蔵、下総を通らなければ常陸には入れませんから。


 貞盛を倒し、秀郷をすくなくとも中立させ、朝廷の追討軍を何度か(いや一度でも可かも?)関東国境で破ったら当時の無能な朝廷は手を出せないでしょう。そして西国の藤原純友がもし太宰府を落としでもしたら…(一時は占領に成功したのですが)、こりゃ面白くなってきますね。

 将門が敗死したために西国に朝廷が全力で当たれることになったことが、純友軍鎮圧の主因でしたから。


 そして貞盛が死ぬことで、その子孫である平清盛伊勢平氏一門は存在しないことになるのですから日本の歴史はどうなるんでしょう?最終的に承平天慶の乱が鎮圧されたとしても、その後の歴史は想像もできません。