連隊長、乃木希典少佐(当時)は無謀にも突出し植木で薩軍とぶつかります。戦闘は大敗、軍旗まで奪われるという恥辱まで加えられて木葉山の枝峰にあった稲佐山に籠城しました。戦国時代の山城跡で、現国道208号線側からみると比高30メートルくらいあって、なかなかの要害です。しかし、ここを訪れた人なら分かりますが、木葉山の峰伝いから攻めると案外もろいことに気付きます。
おそらく戦国時代当時は、この弱点に気付いていたはずで堀切などで遮断していたと思いますが、乃木連隊の場合は、野戦築城の時間はなかったはずです。
私が理解に苦しむのは、植木の戦場に近いここでは防御工事もできず籠城する意味がなかったのではと考えます。それよりも野津鎭雄少将の第一旅団が南下していたはずなので、もっと北上して菊池川の線まで後退していれば合流もしやすいし、遅滞戦闘で薩軍を苦しめることもできたのではないかと思います。
実際、稲佐山の戦闘は薩軍の木葉山側からの夜襲で一日で決着がつきます。敗走した乃木連隊は、玉名市石貫で、南関から南下してきた第一旅団に拾われ窮地を脱しました。
そして玉名市高瀬の地で、集結した官軍と、最大進出線の薩軍が激戦を繰り広げることになります。高瀬の戦闘で敗北した薩軍は、勝利の機会を永遠に失うこととなり、有名な田原坂の戦いに続くのです。
乃木希典は日露戦争、旅順要塞攻略戦でも失敗を繰り返します。精神指導者としての乃木は、尊敬に値する人物ですが、厳しい言い方ですがどうも近代戦には疎かったのではないでしょうか。戦術的センスがなさ過ぎます。
そういえば、司馬遼太郎の「坂の上の雲」にあったエピソードですが、演習で児玉源太郎と戦った乃木は、あっというまに児玉に破られても、しばらく敗北に気付かなかったそうです。日露戦争、203高地の悲劇はこの植木、稲佐山の戦闘にすでに萌芽があったような気がしてなりません。