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奈良朝の風雲Ⅴ 大仏開眼

 聖武天皇(在位724年~749年)という人は、父方の曽祖父天武天皇、母方の曽祖父天智天皇と比べると精神的な弱さをどうしても感じてしまいます。藤原広嗣が九州で反乱を起こすと、その鎮圧の報告が届く前に平城京を逃げ出しました。都を出た理由は、広嗣の乱に畿内の不満分子が呼応して蜂起するのを恐れた説、東国には軍団制の廃止で防人から帰還し動員可能な兵士が数多く存在し不安定要因になっていたのでそれを鎮めに行った説など様々な理由が古来から言われています。その中で私が一番しっくりいったのは藤原広嗣の乱に代表されるように聖武天皇や朝廷を執権する橘諸兄に対する国民の非難に動揺したという説です。

 740年に出奔してから平城京に帰還するまで実に5年、これを彷徨五年と呼ぶそうです。聖武天皇が貴族や民衆の蜂起をどれだけ恐れたかは、行幸を護衛する武官を臨時に任命したことでも分かります。まず御先(みさき)長官に塩焼王、前騎兵大将軍に藤原北家藤原仲麻呂、後騎兵大将軍に紀麻呂を任命しました。彼らは諸国から動員された行幸騎兵を指揮して聖武天皇を護衛します。

 ここで藤原仲麻呂(706年~764年)という人物が初めて登場しますが、実は彼を抜擢したのは叔母の光明皇后だったとも言われます。光明皇后は仏教に深く帰依し慈悲深い女性だったというエピソードが数多く残っていますが、それとは別に藤原一族の娘という側面もありました。皇后は、兄たちである藤原四兄弟天然痘による急死で一族の勢力が失われるのを恐れたのです。しかも式家の藤原広嗣は反乱を起こした逆賊。対応次第では藤原一族全体が没落する危険性もありました。

 彼女は藤原家嫡流南家で亡き武智麻呂の次男仲麻呂に期待します。仲麻呂は幼少期より俊英の評判高く藤原一族を仲麻呂なら再び興隆に導いてくれると思ったのでしょう。聖武天皇仲麻呂だけは信頼し護衛部隊の指揮官に起用しました。彷徨の後戻ったのは平城京ではなく山城国相楽郡恭仁京でした。天皇行幸には朝廷の高官も従ったのでさながら政府が移動していたようなものです。朝廷の諸官にとっても領民にとっても迷惑以外の何物でもなかったでしょう。

 聖武天皇は世が乱れているのは自分のせいではなく何者かによる悪行や天魔の所業だと思いました。古代シナの古い言い伝えでは世が乱れるのは時の政治が悪いからだと言われています。天が悪政を戒めるために天災を起こすという考えです。この言葉を聖武天皇に言い聞かせたいくらいです。聖武天皇は、仏教による国家鎮護を考えました。741年、全国に国分寺国分尼寺の建立を命じます。

 そして743年、全国の国分寺国分尼寺の総本山として奈良に東大寺大仏殿の建立を発願しました。とはいえ準備に時間がかかり実際に盧舎那仏(俗にいう奈良の大仏)の造像が始まったのは745年。752年に開眼供養会が実施されます。大仏には莫大な銅が必要です。その調達にも時間がかかりましたが、一番の悩みは完成した仏像の表面を覆う金でした。749年陸奥から発見された黄金の献上があり、聖武天皇天平感宝改元するほど喜びました。

 聖武天皇は749年7月、娘阿倍内親王に譲位します。すなわち孝謙天皇です。ですから752年の開眼供養会の時は上皇でした。盧舎那仏とそれを囲む大仏殿建造に延べ260万人が動員されたそうです。総工費は現代で換算すると4600億円以上でした。開眼供養会には聖武上皇光明皇太后はじめ文武百官、国内外から1万人の僧が参列します。まさに一大国家行事でした。大仏建立で一つの時代は終わりました。聖武上皇は756年まで生きますが、時代は孝謙天皇、そして頭角を現した藤原仲麻呂を中心に動き始めます。

 

 次回は藤原仲麻呂の台頭を描きましょう。