鳳山雑記帳はてなブログ

立花鳳山と申します。ヤフーブログが終了しましたので、こちらで開設しました。宜しくお願いします。

日本の石油1日当たりの消費量と産油国の1日当たりの産出量

 たまたま、南米のガイアナ原油産出量を増やしておりロシアの石油に頼る必要がなくなるというYOUTUBE動画を見て、本当なのか興味を覚えて調べてみました。

 ガイアナの1日原油産出量は66万バレル。これを2030年までに179万バレルまで増やす計画だそうです。では日本の1日当たりの石油消費量はというと、約77万キロリットルと言われます。単位が違うのでこれをバレルに直すと484.3万バレル。日本一国の消費量も賄えません。

 世界の主要産油国の1日当たりの石油生産量を調べると、1位は意外にもアメリカで1320万バレル。2位がサウジアラビアで1100万バレル。3位がロシアで1000万バレル。桁があまりにも違いすぎます。という事でYOUTUBEの動画は全くのデマでした。産油国で思い浮かぶイランは320万バレル。大東亜戦争の印象で凄い産油国の印象があるインドネシアはわずか60万バレルでした。

 イランよりお隣のイラクの方が産出量が多く440万バレル。意外なところだと南米のブラジルは1日当たり430万バレルなので、ガイアナよりはるかに多く産出します。ガイアナの隣国ベネズエラでさえ経済制裁前は100万バレルを達成していたそうですから、これと比べるとガイアナの石油は大したことありません。

 ネットの情報を鵜呑みにすることがいかに危険か、この件でも分かりました。現在移民問題で話題に上がったアフリカのナイジェリアも1日当たりの原油産出量が154万バレルあるそうですから、これを使って経済発展できなかったのですかね?移民で出すより国内の労働力として石油産業を発展させなさいよと思いました。大きなお世話でしょうけど。

 YOUTUBE情報は役に立つものもありますが、ガセネタも多い印象です。決して鵜呑みにせずまず自分で調べてみるという習慣をつけるのがネットリテラシーを強化する方法なんでしょうね。皆さんはネットの情報に騙された経験はありますか?

 

 

追伸:

 ちなみになんですが、資源がないと言われている日本も新潟県などで石油は少量ながら採れます。年間51万キロリットル。これをバレルに直すと320万7803バレル。365で割ると1日当たり8788バレル。う~ん少なすぎますね。

 というか年産50万キロリットルあったら大東亜戦争時代ならもっと戦えたんじゃないか?と思いました。開戦時の石油備蓄量が840万キロリットルで約2年分。足りない分は松根油で何とか。あとは石炭を液化させて。いろいろ考えましたが無理ゲーでした。満洲大慶油田を戦前に発見していれば!後の祭りなんですけどね。当時は国内で50万キロリットルも採れなかったとは思います。

 

追伸2:

 第2次大戦中、ドイツは人造石油を年間350万トン生産していました。これはドイツの石油需要の46%です。日本も戦時中石炭液化燃料の研究をしていたそうですが、さすがに350万トンは生産できませんでした。技術大国ドイツとの差ですわな。過去記事でも書いてますが、日本の人造石油生産量は年間20万トン。日本としては頑張った方ですが、これが限界だったのでしょう。

防衛省、原子力潜水艦保有を検討

防衛省原子力潜水艦保有を検討へ 防衛力強化で有識者会議提言、戦略改定前倒し見据え

 ついに日本も原子力潜水艦保有を検討しだしましたね。日本は世界最高性能の通常動力型潜水艦(たいげい型)を保有していますが、あくまで待ち伏せ用で、高速で動く敵原子力潜水艦を追尾し有事に入った瞬間撃沈することはできません。主にシナの戦略原潜を追跡する任務は米軍が担っています。

 ただ、日本は核攻撃を受けたら国土が狭いだけに致命傷になりかねず抑止力のために戦略原潜、敵原潜追跡のために攻撃型原潜が必要だと私は思います。この時点で専守防衛を逸脱していますが、そもそも現代戦で専守防衛は成り立ちません。敵の開戦直後の飽和攻撃がもし核だったらその時点で滅びます。

 いきなり核攻撃をするような暴挙はさすがに敵もやらないだろうというのは甘い考えです。安全保障とはあらゆる危険を想定すべきで、想定外などありえないのです。可能性がある限りすべての危険に備えるのがまともな国防戦略であり、国民の安全を守るために必要な事なのです。

 とは言え、いきなり国産で原潜を造るのは難しいと思うので、まずはアメリカからロサンゼルス級原潜の中古を買って、習熟すべきだと思います。戦略原潜は売ってくれないでしょうから、これは最初から時間がかかっても日本で建造すべきでしょうね。

 ネットで見たんですが、三菱重工がマイクロ炉を研究しているのは原潜保有の布石かもしれませんね。ここからは与太話の類に入るんですが、もし日本が戦略原潜保有した場合どこに配備すべきか考えました。

 昔、兵頭二十八さんだったと思いますが、戦略原潜を瀬戸内海の海底に沈めて有事にはそこからSLBM(潜水艦発射弾道ミサイル)を発射すれば良いという論を見た記憶があります。そこで瀬戸内海の平均水深を調べてみたんですが平均水深わずか38m。一番深いのは豊後水道で水深465mあります。大型原潜を潜ませるのに瀬戸内海はあまり有効ではないような気がします。

 日本の潜水艦は他国のそれより深く潜れるのが売りですので、個人的には日本海溝の東側の海域に潜むのがベストかなと思いました。流石に日本海溝の近くは、地震の巣なので潜水艦にも危険が及びます。ですので日本海溝付近で地震が起こってもあまり影響がないくらい離れた距離の海域に潜むのが良いでしょう。当然第二列島線の外側です。

 攻撃型原潜は、アメリカの潜水艦と交代でシナの戦略原潜を見張るようにして欲しいですね。米軍の負担も減るし歓迎されるのでは?海の中は何をしても分からないので、日本の反日左翼も騒げないと思いますよ。原潜保有の前にスパイ防止法マスゴミも含む国内の売国奴を一掃しなければなりませんけどね。

 反撃能力のためのスタンドオフミサイル保有に続いて、原子力潜水艦保有検討、夢は広がります。日本の国を守るために自衛隊はどんどん強化してほしいですね♪

匈奴に嫁いだ官女 王昭君

 世界史悲劇の女性をシリーズ化しようと思っていろいろ探しているんですが、自らの責任でなく運命に翻弄されて非業の最期を迎える女性ってなかなかおらず、ほとんどは自身の性格の弱さやしでかしたことが原因で悲劇を迎える人ばかりでした。

 クレオパトラもそうだし楊貴妃もそう。楊貴妃の人生は確かに同情できるんですが、玄宗皇帝に取り入って楊一族を重用させたり、安禄山を過度に信用して増長させた結果安史の乱が起こり彼女の死なので自業自得という面もあります。クレオパトラに至ってはローマの実力者を誑かして己の権勢を拡大しようとして失敗し殺されたんですから完全に本人の責任です。

 今回紹介する王昭君は、非業の最期こそ迎えていませんが運命に翻弄されたという意味では十分悲劇と言えるでしょう。時は前漢10代元帝(在位前48年~前33年)の御代、王朝成立以来の脅威だった北方の遊牧民族匈奴は、第7代武帝時代の積極的な外征によって勢力を衰えさせていました。とはいえ、まだまだ脅威であったことは確かで前漢王朝は警戒を怠りませんでした。

 そんな匈奴ですが、周辺遊牧民族に対する統制力を弱め、かつて匈奴が滅ぼした東胡の末裔烏丸に反乱を起こされるなど内紛が巻き起こっていました。前漢匈奴の宿敵で天山山脈北方に居た遊牧民烏孫と同盟を結ぶなど圧力を強めます。烏孫は強力で匈奴軍をしばしば破ったため、さしもの強勢を誇った匈奴も衰退が明らかになりました。

 勢力が衰えてくると内紛で分裂するのは歴史の流れらしく、匈奴も東西に分裂します。東匈奴の呼韓邪単于(在位前58年~前31年)は西匈奴を討つため前漢に入朝、和親を求めてきました。当面の脅威が去るのは前漢としても大歓迎で、東匈奴が人質として呼韓邪の弟を差し出したのに対し、前漢の側も和親の印として官女を呼韓邪の妻に差し出すことを決定します。さすがに皇帝の親族を蛮族に差し出すことは躊躇したのでしょう。

 そこで白羽の矢が立ったのが王昭君でした。伝説では元帝は三千人とも言われる後宮の美女のうち誰を選ぶか迷い、全員の絵姿を差し出させその中から一番の醜女(と言っても後宮の美女だからそれなりに美しい)を選ぼうとします。王昭君は裕福な家庭の出身でなかったため、絵を描く宦官に賄賂を贈ることができずことさら醜く描かれたといいます。こうして選ばれた彼女ですが、実際に元帝が彼女を見たとき、この世のものとも思えないような美しさに酷く後悔したそうです。この時王昭君は19歳でした。とは言え、国際的な約束ですから反故にはできず、泣く泣く王昭君匈奴に送り出します。

 王昭君を迎えた呼韓邪単于も大喜びで前漢との関係を維持し続けました。王昭君は呼韓邪単于との間に男子伊屠智牙師をもうけます。ところが、老年の呼韓邪は間もなく亡くなりました。この時王昭君前漢の朝廷に帰国を願ったそうですが、元帝の後を継いだ成帝に「胡族の習俗に従うように」と拒否されました。前漢としてはせっかく結んだ東匈奴との和親を壊されるのが嫌だったのでしょう。

 匈奴というより北方遊牧民の間では、前の単于の側室たちは後を継いだ単于の妻になるという習わしがありました。これは漢民族の習俗としては忌むべきものでしたが、王昭君は仕方なく義理の息子である復株累若鞮単于の側室となります。おそらく王昭君は嫌で仕方なかったと思いますが、漢と匈奴の和親を保つため受け入れたのでしょう。この復株累若鞮単于との間にも二女をもうけます。

 その後の彼女の生涯は分かっていません。おそらく異郷の地で寂しく世を去ったのでしょう。王昭君の墓と伝えられるものは複数あるそうですが、一番有力なのは内モンゴル自治区フフホト市にあるものです。王昭君の生涯は多くの文人の詩興を誘ったらしく杜甫白居易も詩文を残しています。雅楽にもなり後世に彼女の悲劇が伝わりました。

 国際外交の犠牲になった王昭君の生涯、同情します。

9日間の女王 ジェーン・グレイ

 ゲネピル女王の記事が割と評判良かったので、味を占めて世界史悲劇の女性をシリーズ化しようかと思っています。

 世界史で習ったので覚えている人も多いと思いますが、イギリスのチューダー朝(1485年~1603年、テューダー朝ともいう。英語を日本語翻訳した時の違い)といえば、薔薇戦争に勝利したリッチモンド泊ヘンリー・チューダーによって創始された王朝です。即位してヘンリー7世となりました。

 7世の息子ヘンリー8世の時に強勢になり8世の娘エリザベス1世(7世の孫)の時代に絶頂期を迎えます。それまで弱小国だったイギリスを一気に列強の一角に押し上げたのもエリザベス1世でした。しかしエリザベス1世も順風満帆に即位したわけではありません。ヘンリー7世は、薔薇戦争を争った一方の雄ランカスター家最後の生き残りではありましたが、ランカスター家の直系ではなく母系で繋がっているだけでしたので王朝創設時からその正統性に疑問を持たれ続けていました。本人もそれを気にしていたらしく、宿敵ヨーク家からリチャード3世の姪に当たるエリザベス・オブ・ヨークを正室に迎えその正統性を補完したくらいです。ですからチューダー朝は王朝初期から内紛の絶えない王朝でもありました。

 ヘンリー8世は、生涯6人の妻を迎えるなど(しかも前の妻を無実の罪で処刑したりしている)問題の多い人物ではありましたが、イギリス国教会を創立してローマカトリックと一線を画すなど君主としては有能でした。彼には三人の子供がいました。最初の妻キャサリン・オブ・アラゴンとの間に長女メアリー、二番目の妻アン・ブーリンとの間に次女エリザベス、三番目の妻ジェーン・シーモアとの間に長男エドワードです。他に非嫡出子も何人かいましたが、王位継承権があるのはこの三人でした。

 詳しくは過去記事『チューダー朝』シリーズに書いているのでご参照ください。1547年ヘンリー8世が55歳で崩御すると、王位は正嫡の王太子エドワードが継ぎました。すなわちエドワード6世(1537年~1553年)です。エドワード6世は生来病弱の性質で即位した時わずか9歳。

 生前父ヘンリー8世は、エドワードの母の実家シーモア家が権勢を握るのを警戒し顧問団に集団で息子を補佐させるよう仕向けたそうですが、母方の伯父エドワード・シーモアがこれを握りつぶします。エドワード6世治世の初期、シーモアスコットランド女王メアリー・スチュワートとエドワードを結婚させスコットランドイングランドの管理下に置こうと画策し、メアリー女王の拉致を図るなど陰謀の限りを尽くしますが大失敗します。反対派の巻き返しで1552年反逆罪の罪で処刑されました。

 幼少のエドワード6世に親政などできませんから、次に権力を握ったのはノーサンバラント公ジョン・ダドリーでした。ダドリーは病弱のエドワードでは先が長くないと察し次の王位に向けて陰謀を巡らせます。順当にいけばエドワードの姉で年長のメアリーが継ぐはずでした。しかしそれではダドリーの権力は失われます。

 そこでダドリーは、自分の息子ギルフォードにチューダー家所縁の女性を妻に迎えることでイングランド王位を簒奪する計画を練ります。白羽の矢に立ったのがジェーン・グレイ(1537年~1554年)でした。ジェーンはヘンリー7世の曾孫にあたり、ヘンリー8世の妹メアリー・チューダーを祖母にもっていました。母系ではあってもチューダー家の血を継いでいるというのは貴重で、ダドリーもそこに目を付けたのでした。

 結婚した時ジェーンはまだ10代前半。夫ギルフォードも1535年生まれですからお飯事のような夫婦でした。もちろん政略結婚ですから愛などありません。国王エドワード6世が病床につくとダドリーは国王に迫って本来なら王位継承順位が低いジェーンを後継者にするよう要求しました。死期が迫っていたエドワードに反抗する気力はありません。結局ダドリーの言うがまま、遺言でジェーンの後継指名をした後1553年わずか15歳で崩御しました。

 こうして即位したのがジェーン・グレイです。正当な王位継承権を持つメアリーは、身の危険を察知しいち早く逃亡しました。女王となったジェーン・グレイでしたが当然のことながら外戚ダドリーの操り人形に過ぎません。本人は王位継承を嫌がっていたそうですが、運命はそれを許しませんでした。

 宮廷の家臣たちはダドリーに不満を持ちつつも、彼の権勢を恐れ何も言いませんでした。ただ、メアリーに密かに心を寄せる者も多くフラムリンガム城に居た彼女のもとに集まります。その勢力を結集しメアリーは挙兵しました。ダドリーは自ら軍を率いてメアリー討伐に向かいます。しかし、彼がいなくなるとロンドン宮廷の空気は一変し、一時はジェーンの即位を認めた枢密顧問官たちですらメアリーに寝返る始末。正統性を失った女王ジェーンとダドリー一派は惨めでした。

 ダドリー軍は逃亡兵が相次ぎ進退窮まった末メアリー軍に降伏します。女王に即位したメアリー1世によって大逆罪を問われたダドリーは1553年8月22日斬首されました。女王ジェーンとその夫ギルフォードも許されるはずがなくロンドン塔に幽閉されます。ジェーンがイングランド女王として君臨したのはわずか9日でした。ですから彼女のことを9日間の女王と呼びます。最初メアリーはただの陰謀の犠牲者に過ぎないジェーンの命を奪おうとは思っていなかったそうです。ただ、内外の情勢から簒奪者を生かしてておくことはできないと覚悟を決めます。一説ではメアリーの母の実家スペイン王室がジェーンの処刑を執拗に要求したとも言われます。半年ほどの幽閉の末、ジェーンは夫ギルフォードと共に斬首されました。この時ジェーンはわずか16歳。運命に翻弄された一生でした。

 イギリスの史家はジェーンを正当な王位と認めなかったそうですが、のちにイギリス王室は彼女をチューダー朝4代と公式に認めました。名誉回復された彼女ですが、それで無念が晴らされたわけではありません。処刑された時どんな心境だったのでしょうか?怒りか、それとも諦めか?私は自分の運命を受け止め静かに処刑の時を迎えたような気がします。

 高貴な生まれでもそれだけで幸せになれるわけではないという事は、ジェーン・グレイの短い生涯を見ても分かりますね。

パトリアAMVと24式装輪装甲戦闘車の調達価格

 着々と進む防衛力強化。陸上自衛隊では次期装輪装甲車にフィンランド製のパトリアAMV XPを選定しました。16式機動戦闘車をベースとした24式装輪装甲戦闘車も96式装輪装甲車の後継として正式採用を争っていたのですが、防御力、汎用性からパトリアが選ばれます。これで24式が消えるかと思いきや、IFV(歩兵戦闘車)として日本唯一の機甲師団第7師団の89式装甲戦闘車の後継や、16式機動戦闘車の随伴歩兵戦闘車として採用されました。

 とはいえ、パトリア陸上自衛隊全体で810両調達予定なのに対し、24式は232両調達される見込みです。機甲師団の随伴には装輪式ではなく装軌式が良いのではないかと思いますが、今のところ装輪式のIFVはどうなるか分からないので何とも言えません。

 そこで両者の調達価格はどうなのか調べてみました。パトシアAMV XPの当初調達は200億円で28両、1両あたり7.14億円です。一方24式は218億円で18両なので1両あたり12.11億円と高額です。どちらも調達数が増えて行けば量産効果で価格は下がると思いますが、安くなる可能性が高いのは調達数が圧倒的なパトリアの方です。

 もちろん、陸自採用のパトリアAPC装甲兵員輸送車)で24式はIFVなので砲塔がない分パトリアが安いのは当然だと思いますが、それにしても10億超えは高すぎな気がします。

 90式戦車は当初10億円超えでしたが、341両調達したころには1両あたり8億円に下がっています。10式戦車に至っては最初から9.5億円です。西側標準となったドイツのレオパルド2でさえ、国内調達価格は8億円に対し輸出価格は10億円を超えるそうですから、そこまで高価格ではない印象です。

 あくまで個人的感想ですが、24式はもっと安くならなかったのかなとは思います。せめて砲塔がある分パトリアより1億円高い8億円台にできなかったのでしょうか。パトリアのほうが遥かに防御力が高いのは過去記事でも書きました。こればかりは、国際的販売実績のあるパトリアと比べるのは、ガラパゴス化した日本製兵器は酷なのでしょう。

 私の希望としては、BAEが提案したパトリアの車体にスウェーデン製CV90歩兵戦闘車の40㎜機関砲搭載砲塔を載せたIFVタイプが最強のような気もしますので、なんとか日本もパトリアのIFV化を望んでいます。何よりも私が一番信用していない軍事ライターの清谷信一氏がパトリアAMV XPの採用を酷評しているので、逆に日本にとって良かったと思います。清谷氏は軍事知識があるのは認めますが、なぜか最終結論で日本をディスる傾向がありますから。90式戦車を採用した時、74式の改良で事足りると暴論を吐いたことは一生忘れません。

江崎道朗氏が作った自民党総裁選候補の政策だそうです

 9月23日の文化人放送局で紹介されていた表を私なりに見やすくまとめてみました。

 江崎道朗氏は昔は評価していたんですが日本保守党アンチに回ったので最近は見限っています。とはいえ、まともな保守論客であることは変わりないので彼が作成した表はある程度信用できると思います。

 各候補の政策で一番まともなのは高市さん、一番駄目なのは小泉進次郎ですが、林もそれに負けず劣らず酷い。完全に岸破政権の政策の踏襲です。検討といっているのはやらないことと同義で全くふざけていますね。茂木は駄目な三人のうちではましな方ですが、ほとんどはこれも岸破政権の踏襲です。年収の壁で野党との連携を意識しているだけましか?

 数量経済学者の高橋洋一氏が自身のYOUTUBEチャンネルで嫌な予測をしていました。進次郎が討論会で失言し失速したら林が台頭してくるだろうと。進次郎と林を支持する層は似通っているので、岸田や石破にすればどちらかが決選投票に勝ち残れば良いと考えているそうです。

 そして決選投票では、進次郎陣営と林陣営は共闘し、高市陣営に勝つことを画策しているとか。本当に卑劣な連中ですね。また、小林陣営も決選投票になったら反高市に回ると予想されています。小林陣営は保守ではなく財務省の手先だからというのが理由です。高市さんが勝つには第一回投票で党員票を大量獲得し過半数を達成するか、過半数に行かないにしてもそれに近い数字を獲得できるかです。その意味では高市陣営は苦しいと言えますね。

 私のように半ば諦めの感情で外から自民党総裁選を眺めている者からすれば、高市さん以外が自民党総裁になったらその時点で自民党は滅亡の道を突き進むだろうと見ています。進次郎なら国会で失言を繰り返し、雰囲気だけで応援していた情弱層すら見放して衆議院選挙で大敗。茂木はまず勝てないでしょうから放っておくとして、林なら岸破政権の焼き直しですからこれも総選挙大敗。そして二度と自民党は政権与党に戻ることは無いでしょう。

 高市さんが万が一勝ったとして、公明党を完全に切ったら自民党浮上の目も少しはありますが、相変わらず公明党との腐れ縁を保ったらよくて現状維持、おそらくは自民党の命脈を少し伸ばすくらいでしょう。その意味では絶望の総裁選ですね。マスゴミはしきりに進次郎を応援していますが、シナの指令があったのでしょう。そして進次郎が失言でどうしようもなくなったら手のひら返しで林応援にチェンジすると思いますよ。とにかくシナに取っては高市政権は悪夢。何が何でも妨害してくるでしょう。

 シナにとっては馬鹿すぎてコントロールが効かない進次郎より、リンホウセイの方が操りやすいと考えているかもしれません。本当に怒りを覚えますね。皆さんは自民党総裁選各候補の政策、どのような感想を持たれましたか?

モンゴル革命の犠牲者 ゲネピル女王

 YOUTUBEの歴史系動画で知ったのですが、モンゴル最後の女王ゲネピルの悲惨な生涯に驚きました。

 17世紀以降モンゴルは清朝に従っていましたが、臣従ではなく緩やかな従属関係である程度の自治も認められていたそうです。1911年辛亥革命清朝が事実上崩壊すると、モンゴルの人たちはチベット人ラマ教の高僧ジェブツンダンバ8世を元首に推戴し清朝から独立を宣言します。当時のモンゴルはラマ教を国教化しておりモンゴルの遊牧部族の長の誰かを推戴するより都合が良かったのです。

 ジェブツンダンバ8世はボグド・ハーンと呼ばれたので以後はこの名前で通します。実はボグド・ハーンはラマ僧にもかかわらず妻帯していました。ボグド・ハーンは清朝から独立を守るために帝政ロシアに接近します。ところがそのロシアもロシア革命で大混乱に陥り、ロシア政府はモンゴルの独立を認めず1913年には露中宣言で中華民国の宗主権を認めました。

 1919年中華民国軍がモンゴルに進駐、ボグド・ハーンは軟禁されます。しかし、ロシア革命の中、白軍(赤軍に対する反革命派)の指導者の一人ウンゲルン男爵の軍が1920年モンゴルに侵入、駐屯していた中華民国軍(国府軍)を追い出し、ボグド・ハーンを復位させます。あくまで傀儡ではあってもボグド・ハーンのモンゴル王国は復活したわけです。

 最初モンゴルの人たちはロシア白軍を歓迎していました。ところがモンゴルに逃亡してきたロシア系ユダヤ人を虐殺し、モンゴルの革命派も弾圧するなど暴虐の限りを尽くし、ボグド・ハーンの政府は密かに北京政府に救援を乞う始末。北京政府は満洲に割拠していた軍閥張作霖にモンゴルのロシア白軍討伐を命じますが、彼は動きませんでした。

 そんな中、革命派のチョイバルサン1921年3月キャフタでモンゴル臨時人民政府を樹立。ソ連赤軍の支援を受け1万人にまで膨れ上がった革命軍はウルゲルン男爵のロシア白軍を撃破、最初はボグド・ハーンを元首とする連合政府を作りました。

 ボグド・ハーンがラマ僧にも関わらず妻帯していてことは前に書きました。その最初の妻は1923年死去します。53歳になっていたボグド・ハーンは妻の死を嘆きますが、宮廷はハーンが妻帯していないと都合が悪いので、新たな妻探しを始めます。選ばれたのはモンゴル北方の貴族の娘ゲネピルでした。彼女はすでに夫がいましたが、強制的に離縁させられボグド・ハーンの後妻にされました。当時19歳の若さだったそうです。

 政略結婚ですから愛などなかったでしょう。王妃となったゲネピルでしたが、病弱だったボグド・ハーンは1924年に54歳で亡くなります。わずか1年足らずの結婚生活、ゲネピルは実家に戻されました。この時最初の夫と再婚できたかどうかは分かりません。しかし彼女が平穏な生活に戻ることはありませんでした。

 1924年、権力を握ったモンゴル人民党の指導者チョイバルサンモンゴル人民共和国設立を宣言します。チョイバルサンは権力を維持するために反革命分子の大量粛清を開始しました。命を奪われた人は推定三万人から三万五千人。モンゴル王国関係者、ラマ教関係者、ジャーナリスト、学者、チョイバルサンに反対する反体制派、モンゴル帝国以来の貴族層など多岐にわたりました。ほとんどは無実の罪ですが、でっち上げられた罪状で処刑されたのです。理不尽な話ですが、ロシアやシナ、カンボジアなど共産党政権ではよくある話でした。

 その魔の手は、平穏な生活を送っていたゲネピルにも及びます。1937年、日本軍に通謀し政権転覆を図ったという無実の罪で逮捕されました。どう考えても民間人で何の力もない彼女が政権転覆できるはずがありません。その上日本軍とどうやって連絡を取れるのでしょうか?チョイバルサンが彼女を逮捕したのは、あくまで王政の象徴としての見せしめでした。

 この時彼女は妊娠していたそうです。1938年、ゲネピルは家族と共に処刑されました。まさに革命の犠牲者です。享年33歳。このような悲惨な話が20世紀に起こっていたことを知って衝撃でした。運命に翻弄されたゲネピルとその家族の冥福を祈らざるを得ません。