鳳山雑記帳はてなブログ

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菊池川の戦い 起こりえたもうひとつの歴史

 戦国時代の九州は豊後の大友宗麟、薩摩の島津義久肥前の竜造寺隆信の三人の戦国大名が覇をきそっていた。その中でまず一時は6カ国の守護を兼ねて最大の勢力を誇っていた大友宗麟が、1578年日向耳川の戦い島津義久に敗れ脱落。九州は北の竜造寺か南の島津のどちらかの手に落ちるか、という状況になった。
 竜造寺隆信は、勇将鍋島直茂を従え、肥前佐賀を本拠地に筑前筑後、肥後、豊前壱岐対馬の五州二島の太守と称されるほどの大勢力に短期間で成長した。一方、島津は当主義久の3人の弟、義弘、家久、歳久がそれぞれ優秀で薩摩隼人の強兵を持ってまず、大隈、日向を統一。1581年には肥後侵入、肥後南部を支配する相良氏を下し、1584年に竜造寺から離反した島原日ノ江城主有馬晴信を助け沖田畷の合戦で竜造寺隆信を討ち取り九州制覇への道を邁進することとなる。
 しかし、竜造寺と島津がその数年前に、肥後菊池川を挟んで一触即発の危機に合った事は知られていない。
 私が、これを知ったのは地元の郷土史の本を読んだからで、それまでは恥ずかしながら知識を持たなかった。
 ことの始まりは、竜造寺隆信の肥後侵入だった。肥後東北部、小岱山筒ヶ岳城主小代氏は、それまで大友氏の有力被官だったが、5万と称する竜造寺の大軍の前になすすべもなく降伏、玉名郡内の大津山、和仁など諸将もこれに続いた。これを見た旧菊池家の三家老、隈府の赤星氏、城村城の隈部氏、隈本の城氏は竜造寺隆信に人質をだして降伏した。
 ところが、同じ時期薩摩の島津氏が北上してしてくると、事態はかわってきた。三家老の態度は曖昧になり、やすやすと領内を通過させ島津勢は肥後北部の大河、菊池川の線まで姿を表してくる。
 伝えられるところでは、海路肥後入りした竜造寺隆信は、現玉名市北部、土豪大野氏の居館のあった内野城に本陣を構え、菊池川沿いに大軍を布陣したという。一方、島津勢は1万数千ほど、数の上では圧倒的に竜造寺勢が優勢だった。
 しかし、竜造寺隆信はここでは戦端を開かなかった。肥後の諸将の去就が不明なことと、島津の強兵に慎重になっていたことが理由であった。やがて和議が成立し両軍は兵を引く。
 そして、沖田畷の合戦に続くのであるが、もしここで竜造寺隆信が開戦を選択していたらどうだったろうか?歴史にIFは禁物だというが、想像してみるのも面白い。
 沖田畷では、両側を深田に挟まれた文字どうり畷道に、誘い込まれた竜造寺勢が島津の鉄砲隊に一斉射撃をうけ討ち取られたのだが、菊池川を挟んだ玉名平野なら数の上で優勢な竜造寺軍が有利である。西南戦争でも薩摩軍と官軍の戦闘はこの高瀬の地で行われた。そのときも圧倒的な数を誇る官軍が、薩摩軍の北上を撃退している。地形的に南側の軍が渡河攻撃をしてきたら、北側の軍は小岱山から南側に伸びた稜線上(現蛇ヶ谷公園のあたり)に兵をおき、南方の小丘陵(玉名市役所から羽根木八幡宮)のあたりに布陣する兵力とで包囲攻撃できる体制になる。実際西南戦争高瀬の戦闘もそのように展開した。
 だが、竜造寺隆信が戦端を開くつもりがなかったと見て取れるのは、本陣を予定戦場から5キロも離れた内野城においていた事だ。古地図を見ると確かに内野城は要害の地だった。周囲を大野牟田と呼ばれる湿地に囲まれ、城の規模は小さいものの、周辺部の陸地をあわせた台地はかなりの大軍が篭れる地形だ。
 海に近く、本拠肥前にも連絡が付きやすい。しかし、菊池川を挟んだ戦闘の指揮をとるには遠すぎる。すくなくとも蛇ヶ谷公園のあたりか、羽根木八幡のあたりに本陣をおいて陣頭指揮すべきだ。
 なぜ、そんな遠くに陣を置いたのかは本人のみぞ知ることなのだが、沖田畷で戦死することを考えたらここで勝負をしても良かったのでは?と思う。
 逆に言えば、島津義久にとっては、竜造寺隆信が内野城に本陣をおいた事に感謝せねばなるまい。