太平記の前半のクライマックス、播磨の国、白旗城で赤松円心が新田義貞の軍勢を釘付けにします。その間に、九州で勢力を回復し、捲土重来した足利尊氏の大軍が、海陸から攻め寄せました。
宮方は、湊川の合戦で大敗し京都を明け渡すことになりました。赤松円心の功は大きいものでした。尊氏が勢力を回復するまで、宮方の攻撃を一手に引き受けたのですから。
一説では、尊氏に光厳上皇の擁立を献策し、北朝成立のきっかけをつくったのも円心とか。尊氏は、この功に報いるため、本国播磨のほかに、備前、美作の守護職を与えました。以後赤松一族は、侍所所司に交代で補せられる赤松・一色・山名・京極の、いわゆる四職家の一つとして幕府に重きを成します。
ところで、赤松則村入道円心は、一色氏ら足利一門の出身ではなく、さらには初めからの武家方でもありませんでした。その出自は、村上源氏と称していますが、そのような高貴なものではなく、鎌倉末期にあらわれた楠正成、名和長年のような非御家人の『悪党』と呼ばれる新興勢力ではなかったかと言われています。
もともと幕府に不満をもっていた円心は、護良親王に自分の三男、則祐を側近として差し出し親王方として1333年、元弘の変で、護良親王の檄に応じて挙兵します。
六波羅探題は、これを討伐するため備前守護、加持氏の軍勢を差し向けますが円心に敗れます。赤松勢は東上の勢いを示し、六波羅勢二万がこれに当たりました。しかし、円心のゲリラ戦法にまたしてもやられ、一進一退の攻防ながら、しだいに追い詰められていきます。
円心は、丹波で挙兵した足利高氏(尊氏)と協力してついに鎌倉幕府の出先機関、六波羅探題を攻め滅ぼすことに成功しました。おなじころ関東でも新田義貞が鎌倉を落とし、これで鎌倉幕府は滅亡、後醍醐天皇による建武の新政が始まりました。
当然、円心はその功により播磨の守護を賜るものと考えていました。しかし恩賞は作用庄のみ、頼みの護良親王も失脚したため、怒って播磨に帰ってしまいます。宮方は惜しい事をしました。円心を怒らせたばかりに、最終的には京を失うのですから。
円心が重用されなかったのは、後醍醐天皇が警戒する護良親王派であったほかに、楠正成らと違い、狡猾さ、ふてぶてしさを円心から感じていたこともあったのかもしれません。
円心は当然のごとく、尊氏に接近します。これは宮方にとって致命的でした。初めは尊氏を京から叩き出した宮方も、円心が播磨で時間を稼ぐうちに、九州を統一し逆襲に転じた足利軍に敗れました。
円心は、この困難な役目を、自ら買ってでました。それだけ宮方に対する恨みが深かったのでしょう。
円心は足利尊氏と、弟の直義が対立した『観応の擾乱』でも、尊氏を一貫して支持します。尊氏という男は、この煮ても焼いても食えぬ男の心を捕った唯一の存在だったのかもしれません。
円心は、尊氏に背いた庶子で直義の養子になっていた足利直冬討伐の軍を編成中、京にて没します。享年74歳。
子孫は、『嘉吉の変』で曾孫の満祐の時代、一時断絶しますが、まもなく再興。播磨各地に根を下ろし戦国時代を迎えます。別所氏や小寺氏も皆、赤松氏の子孫でした。