昔、中国戦国時代初期、魏の文侯の臣下に西門豹という人がいました。鄴(ギョウ)県の令に任ぜられて着任すると、その土地には河伯(黄河の神)のために妻を娶らせるという風習がありました。
毎年、その時期がくると巫が家々をまわって美しい娘を探し、沐浴させた上、河に流すのです。鄴の三老(土地の有力者)は巫たちと結託し、この行事のために民から税金を徴収し私腹を肥やしていたそうです。
西門豹は、この事実を知ると怒ります。現場に出かけると、今にも娘が河に流されようとしていました。彼は、「この娘では河伯は納得されまい。『後日、美女を見つけてくるまでお待ちいただきたい』と、河伯に頼んでまいれ」と言って、巫の老婆を河に投げ込みます。
しばらくすると、「婆さん、いやに手間取っているな。お前たちが様子を見て来い。」と、三人の弟子を投げ込みました。
さらに、しばらくして「あいつらでは埒があかん。その方、行って話しをつけてくれぬか?」と、三老たちまで河に投げ込みました。
これを見ていた豪族たちは震え上がって、以後この行事を言い出すものはいなくなりました。西門豹は時を移さず、民を徴発して十二の溝渠をうがち、黄河の水を引いて灌漑しました。この後、鄴の地は水利に恵まれた豊かな土地となったそうです。西門豹は、名県令として土地の人々に長く慕われました。