日本史といいながら、ものすごくマイナーな話題で恐縮です。
皆さんは、南北朝時代のことを日本史で習った記憶がおありでしょうが、九州が南朝の征西将軍宮懐良(かねなが。最近のかねよしと呼ぶのは嫌い。ついでに護良ももりながです!)親王の下で、十数年一種の独立国状態であったことをご存知の方は少ないでしょう。明も懐良親王の政権を一時日本国正当政府と認め、勘合貿易していたほどです。
全国的には、足利氏の北朝のほうが優勢だったのですが、肥後の菊池武光という勇将の援助を得て、1359年筑後川の戦いで4万もの幕府がたの大軍を破り大宰府を占領し威をふるいます。
事態を憂慮した管領細川頼之は、今川了俊を九州探題に任命します。1367年のことです。了俊は備前で準備を調えると、まず嫡子の満範を豊後に上陸させ、ついで弟仲秋に肥前の経略をまかせます。自身は周防の大内氏の兵を借り、豊前から上陸。1372年には南朝方を大宰府から追い、筑後高良山で抵抗をうけるも撃退に成功します。
南朝方は菊池氏の本拠肥後北部に篭城の構えを見せます。山鹿口から肥後に入った了俊は菊池氏の本拠、隈府を望む日の岡に陣をしきます。弟の仲秋も肥前の諸将を率いて岩原(いわばる)に着陣、八方ヶ岳から南にのびる稜線の突端に築かれた台(うてな)城にこもる菊池勢主力と対峙します。
台城と日ノ岡は小高い丘になっていて、その間は水島と呼ばれる低湿地になっていました。ざっと3キロくらいでしょうか。了俊はここで、決着をつけるつもりで、豊後の守護大友親世、薩摩の守護島津氏久、筑前の守護小弐冬資を呼び寄せます。ところが、了俊に敵対心を持っている小弐冬資がこれを拒んだため、島津氏久に仲介を頼んで、来陣を促します。
ここで、了俊は致命的なミスを犯します。なんと来陣した小弐冬資を謀殺してしまうのです。これには仲介した島津氏久が烈火のごとく怒り、帰国してしまいます。以後、島津家は今川了俊に敵対します。
そんな波乱がありながらも、何とか了俊は菊池勢を本拠隈府(現菊池市)から追い出し、数年後には、南朝勢力を八代の古麓城に追い詰めることに成功します。あと一歩で九州統一でした。
しかし、あまりに強力になりすぎた今川了俊の勢力を警戒した将軍足利義満は彼を解任します。一説には後に謀反を起こす周防の守護大名大内義弘から、共同して幕府に反逆しようと持ちかけられたところ、了俊が断ったので、逆恨みした義弘が幕府に了俊が謀反の疑いがあると訴えたのだとか。
以後、足利一族の渋川氏が九州探題に任ぜられましたが振るわず、九州に進出してきた大内氏の傀儡と化します。
実は、私の故郷は熊本県でしてこのまえ帰省したときに日ノ岡に登ってみたのです。資料でここだと断定した場所がなく、私が現地を見たときの推測ですが(郷土史に詳しい方教えてください)、おそらく山鹿市の東北に位置する石の風車公園(正式名称は知りません。これも教えてください)がそれではないかと思います。比高2~30メートルの丘で公園内には今川了俊が植えたとされる松の木もあります。かっての古墳群が点在するその地は、山鹿平野を一望でき、菊池勢の防衛拠点台城をはるかに望むことができます。今川仲秋の肥前勢が布陣した岩原陣(これも古墳群あと)との連絡も容易です。
この地を選定した了俊はさすがに名将だな、としばし感慨にふけった鳳山でした。