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古代西洋世界の陣形研究(完結編)

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 アレキサンドロス大王の死後、帝国は3人の将軍によって分割されます。セレウコスのシリア、プトレマイオスのエジプト、そしてアンティゴノスのマケドニアです。後継者王朝と呼ばれる国々でしたが、戦争をくりかえし、停滞している間に、西のほうではローマが台頭してきていました。
 第2次ポエニ戦争時、ハンニバルと同盟した時のマケドニア王フィリッポス5世は、しかし援軍をおくることもなく、ローマに各個撃破されてしまいます。(第1次、第2次マケドニア戦争)
 これによって、ギリシャへの覇権を失ったフィリッポス5世は、以後内政に専念し、表面上ローマと友好を保ちながら国力の回復に努めます。だが、彼の死後跡を継いだ息子ペルセウスは凡庸な人物でした。
 欲深でケチ、有能な傭兵隊が自発的に協力を申し出たのに、報酬の高さに断ったほどです。ただし、父王の野望だけは受け継いでいました。父王の残した莫大な財産と軍隊を頼みに三度ローマに挑戦したのです。(第3次マケドニア戦争BC171~BC168)
 自国から出ないペルセウスに、ローマは将軍を派遣しますが、みな無能でことごとく敗れてしまいました。ローマはついに切り札をだします。エミリウス・パウルス、60歳ちかいこの人物は無欲で高貴な人格、ペルセウスとはまったく反対でした。若いころ執政官選挙に出馬しますが、大衆に煙たがられて落選その後は隠棲していました。ローマの危機に大衆はパウルスに出馬を懇願します。真のローマ貴族(パトリキ)である彼は、その責任感からこの申し出を受けます。
 戦場はオリュンポス山北方のピュドナの地。ローマ軍2万、マケドニア軍3万以上。騎兵戦力はマケドニアが勝っていましたが、「ハンマーと金床」戦術は忘れ去られアレキサンドロス時代からさらに長くなったサリッサを装備した重装歩兵(ペゼタイロイ)のファランクス(密集陣)が決戦兵種となっていました。
 このとき、ペルセウスは戦場の選定に致命的なミスを犯します。ファランクスが100%の力を発揮するのは平坦な地形、できれば側面に河か障害物があれば騎兵が回りこめないので理想的でした。一方ピュドナの地は山の斜面ででこぼこしています。もっとも、パウルスがこの地を戦場に選ばせたのかもしれませんが。
 両軍は、中央に重装歩兵、両翼に騎兵を配するという伝統的な陣形で対峙します。ペルセウスファランクスを前進させ、その衝撃力でローマ軍を粉砕しようとします。さすがにアレキサンドロス以来のペゼタイロイ、ローマの軍団兵は苦戦します。しかし、でこぼことした地形の中で、ファランクスの戦列に隙ができます。慧眼のパウルスはそれを見逃しませんでした。ローマ兵が戦列の隙間に浸透すると、長すぎる槍で身動きの取れないマケドニア軍は、短剣(グラディウス)を装備し有機的に動けるローマ軍団兵の敵ではありませんでした。マケドニア軍の戦列はズタズタに裂かれ、なすすべもなく敗走します。
 ペルセウス自身も逃亡しますが、捕らえられてパウルスの前に引き出されます。見苦しく命乞いをするペルセウスに対して、パウルスはこう言ったと伝えられます。
 「気の毒な人だ。どうしてあなた自身がローマの敵であったことを誇りにしないのか。」
 ペルセウスアンティゴノス朝マケドニアの最後の王でした。マケドニアはいくつかの小国に分割されますが、反乱をおこし第4次マケドニア戦争で滅亡します。

 マケドニアとローマ、その戦術はローマに軍配があがりました。しかし、マケドニア軍の指揮者がアレキサンドロス大王か、その父フィリッポス2世だったらどうだったでしょう?「ハンマーと金床」戦術対ローマ重装歩兵(コホルス戦術はマリウスの改革以後ですが)、わくわくします。勝敗はまったく指揮者の能力で決まるでしょう。
 最高度に機能した場合の「ハンマーと金床」戦術は、火砲の登場まで無敵であった、と誰かが書いていた記憶があります。歴史群像だったかな?しかし、それを使いこなすにはある程度の能力を必要としたということも事実でした。

 ローマは、カルタゴマケドニアという2大強国を下した事で、世界帝国への道を歩んだといっても過言ではないかもしれません。