天文十年(1541年)無血クーデターで甲斐の実権を握った武田晴信は二十一歳でした。後に信玄と号する彼の生涯はあまりにも有名なので、簡単に紹介するに止めます。
まず国内を固めた晴信は、天文十一年(1542年)、内紛を利用し、父の代からの宿敵だった諏訪頼重を滅ぼします。天文十九年(1550年)には信濃守護小笠原氏の軍勢を塩尻峠に撃破、天文二十二年(1553年)には真田幸隆の謀略で戸石城を落とし、北信濃の豪族、村上義清を越後に追い出します。
ここまでみると順調に信濃攻略を進めているみたいですが、特に村上義清との戦いでは「上田原合戦」「戸石崩れ」と二度にわたり敗北を喫し、板垣信方や甘利虎泰ら多くの重臣を失っています。
天文二十二年(1553年)には有名な「第一回川中島合戦」が起こります。これは村上義清ら北信濃の豪族が、晴信に追われ越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼り、越後軍がこれを助けるため侵入して起こりました。川中島合戦は合計5回起きます。中でも永禄四年(1561年)の第四回は激戦で単騎斬り込んだ上杉謙信の太刀を、信玄が軍配で受け止めたという伝説もあるほどです。「啄木鳥戦法」対「車懸り陣」が激突し、両軍あわせて6千人の死者をだしたほどでした。
川中島合戦については、機会があれば詳しく紹介しようと思っています。
「第一回川中島合戦」のあと、晴信は駿河の今川義元、相模の北条氏康と三国同盟を結びます。互いに背後を気にせず戦うためです。永禄二年(1559年)、晴信は出家して信玄と号します。
第四回川中島合戦後、信濃をほぼ制圧した信玄は西上野に進出、山内上杉氏の家老長野氏を箕輪城に滅ぼします。信玄が次に狙ったのは駿河でした。永禄三年(1560年)桶狭間で今川義元が織田信長に討ち取られると、公然と信玄は駿河を窺い始めます。これに反対したのは、義元の娘を妻にしている、嫡子義信でした。信玄は義信を自刃に追い込みます。天下統一の野望の前には肉親までも犠牲にしました。
永禄十一年(1568年)、信玄は念願の駿河侵攻を果たします。しかし同盟破棄で敵対した北条氏の援軍もやってきたため、思うように侵略できませんでした。そこで北条氏をけん制するため、2万2千の兵を率いた信玄は、西上野から北条領に侵入、長躯小田原城を攻めます。しかし本気で攻略する気はなく、ほどほどで帰途につきます。そこを待ち伏せていた北条氏照、氏邦の北条軍二万を『三増峠の合戦』で鎧袖一触します。まるで相手になりませんでした。
こうして北条氏をけん制すると、元亀元年(1570年)駿河の完全支配に成功します。甲斐・信濃・西上野・駿河・遠江北部、三河東部、美濃東部に勢力を広げ、およそ百五十万石、動員兵力にして五万の大勢力に成長しました。
中央では織田信長が台頭していました。はじめは両者友好的な関係でしたが、信玄の上洛が現実的になるに及んで関係は冷えてきます。
元亀三年(1572年)、将軍足利義昭の求めに応じ信玄は西上の途につきます。兵力は3万3千。遠江に侵攻し、二俣城など徳川の城を次々と落としてゆきました。徳川家康は、信玄の上洛を指を咥えて見ているのが我慢ならず、浜松北方の三方ヶ原で迎え撃ちます。兵力は織田の援軍を入れて1万1千。鶴翼の陣形を敷きました。一方武田軍は魚燐の陣形で徳川軍に当たります。戦いは一方的でした。敗北した家康は恐怖のあまり、馬上で脱糞したと伝えられています。しかし、敵わないながら信玄と真っ向から戦いを挑んだ事は、後の家康にとって財産となりました。
徳川軍を粉砕した武田軍は、三河に入り野田城を攻略。しかしここで信玄は病に倒れます。兵を引かせ、信州駒場で病死しました。享年53歳。
信玄は、自分の死を敵に悟られないため「三年喪を秘せ」と遺言します。後を継いだのは諏訪四郎勝頼。この遺言が彼の重荷になるのです。
ところで、信玄が上洛に成功した場合歴史はどうなっていたでしょうか?私鳳山の考えでは、あまり成功しなかったのではないかと思います。これとそっくりな例があります。周防の大内義興が中国・北九州の兵二万を率い、将軍義稙を奉じて上洛したことがありました。一時は京都を占領しますが、各地の豪族が反抗し、ついに畿内制圧を諦め故国に戻らざるを得なくなります。
やはり、天下を統一するには信長のような、独創性と中世的権威の破壊者でなくてはならないと思います。信玄では、京の既成の権力に丸め込まれるような気がするのですが、皆さんはどうお考えですか?
前・中・後編で終わらなかったこの話、完結編を設けて勝頼の活躍と、武田氏滅亡を描こうと思います。