鳳山雑記帳はてなブログ

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フランス革命Ⅴ 革命独裁とテルミドール反動

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                           ※ ロベスピエール

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                 ※ ダヴィットの有名な歴史画 『マラーの死』

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                     ※ マラー暗殺犯 シャルロット・コルデー


 1793年7月13日、ロベス・ピエールの盟友で山岳派の指導者のひとりジャン=ポール・マラーは持病の皮膚病を悪化させパリの自宅で入浴療法を施していました。その日は朝から二十代と思われる美しい女性が何度もマラーに面会を求めます。余りの熱心さに自分の信奉者だろうとマラーは自宅に招き入れました。丁度マラーは日課の入浴療法の最中で彼女は浴室に通されます。しばらくするとマラーの絶叫が響きました。妻が慌てて駆けつけると近くで匕首を握りながら呆然と立ち尽くす女性がいました。

 彼女の名はシャルロット・コルデー。ノルマンディー貴族の娘で25歳。王党派ともジロンド派とも言われますが、その場で逮捕されたシャルロットは7月17日革命裁判で死刑判決を受けギロチンにかけられました。暗殺犯があまりにも美貌だったため見物する市民は水を打ったように静まったと言われます。革命の行き過ぎに危惧を感じ始めている者も出てきており、暗殺に対する憎しみよりも革命政権の行く末に暗雲を感じる市民も多かったそうです。

 盟友とは言いながら、マラーは国民的人気が高い政治家でありロベスピエールは政敵として警戒していました。そのマラーが非業の死を遂げたわけですが、ロベスピエールはそれを最大限利用することを忘れませんでした。マラーは革命の殉教者として祭り上げられ、ロベスピエールはマラーの遺志を継ぐという大義名分の下反対者を革命に対する敵として次々と粛清します。王党派やジロンド派だけでなく、山岳派内の過激派である無政府主義者、土地公有化を主張する者共もその対象となりました。ロベスピエールは自ら公安委員会の長に就任し反対派を次々と革命裁判にかけ処刑します。まさに恐怖政治です。ロベスピエールは思想的には中道左派だったと言われますが、強硬な政治姿勢は左右双方から憎まれました。

 1794年春にはロベスピエールによる山岳派独裁がほぼ完成、革命戦争も国民総動員令により次第に巻き返し始めます。特にそれまで無名だった砲兵大尉ナポレオン・ボナパルト(1769年~1821年)はトゥーロン包囲戦で大功をあげ急速に台頭しました。革命政権としても軍事的英雄が必要だったのでしょう。ナポレオンは国民公会の議員の推薦を受けわずか24歳で旅団陸将(少将相当)に昇進しました。特にロベスピエールの弟オーギュスタンに目をかけられ革命政権の藩屏とさせられます。

 ロベスピエールの強引なやり方は、山岳派を次第に孤立化させていきました。このままではいつ自分が粛清されるか分からないと恐怖を抱いた反対派は、左右の思想に関係なく秘かに連絡を取り来るべき日に備えます。運命のテルミドール革命暦11月、西暦だと7月)がやってきました。1794年7月26日(テルミドール8日)、ロベスピエール国民公会で自分を狙った陰謀を告発し裏切り者の逮捕、公安委員会、保安委員会の粛清を要求します。ところが議会は逆にロベスピエールを糾弾、「国民公会を私物化し麻痺させたのはロベスピエール本人だ!」という声が次々と上がりました。反対派とて命がけです。負ければギロチンが待っているんですから。

 今までロベスピエールの恐怖政治にすくみあがっていた国民公会ですが、実は山岳派は少数派で反対者の方が多かったのです。ロベスピエールは呆然として立ち尽くします。山岳派サンジュストの発言すら怒号で妨げられました。反対派の主導で国民衛兵司令官のアンリオ、革命裁判所長デュマの逮捕が決まります。次いで本丸のロベスピエール本人の逮捕という流れに行くはずでしたが、パリコミューンに救出されロベスミエールは市庁舎に脱出しました。パリの市議会はまだ山岳派が掌握していたのです。

 この時ロベスピエールは国民衛兵を動員して国民公会を軍事力で制圧する選択肢もありました。ところが市民の声の代弁者という大義名分で政治を行ってきた手前、ロベスピエールは自らの手で革命政権を潰すという事を躊躇します。結局これが命取りとなりました。国民公会ロベスピエール派の議員5名の市民権を剥奪します。その日の夜パリ市庁舎には3千名の国民衛兵が居たそうですが、ロベスピエールからの出動命令は出ませんでした。翌27日午前2時国民公会側の武装衛兵がパリ市庁舎を囲みます。制圧はほとんど無抵抗で、ロベスピエール側の議員ルバがピストル自殺しました。ロベスピエールも自殺しようとしますが失敗、全員逮捕されます。

 28日朝、革命裁判所はロベスピエール派22名に死刑判決を下しました。皮肉なことにギロチンによる恐怖で支配したロベスピエールは自らもギロチンによって命を絶たれたのです。享年36歳。翌29日にもさらにパリコミューン側の議員70名が処刑されました。

 ロベスピエールの刑死と共に山岳派は壊滅状態に陥ります。それまで恐怖政治に逼塞していた側の反撃が始まりました。救国の英雄と持て囃されたナポレオンでさえ、ロベスピエールの弟オーギュスタンと親しかったというだけで反逆罪・逮捕拘禁されます。この時政権を握った勢力をテルミドール右派と呼びますが、前政権があまりにも左に偏っていた為、保守中道的な政治を行います。反革命の罪で捕らえられていた容疑者の大量釈放、革命裁判所の改組、公安委員会の権限縮小が決まりました。それまで山岳派の温床だったパリ市の政府直接管理も決まり、総価格統制令が廃止されました。山岳派が牛耳っていたジャコバン・クラブ閉鎖。ギロチンの恐怖で逼塞していた市民は開放感に酔いしれたそうです。

 これだけなら良い変化ですが、今度は白色テロが横行します。これまでロベスピエール政権下で甘い汁を吸っていた左派市民たちは、自分たちの特権が奪われることに怒り何度となく蜂起しました。テルミドール右派政権は、これを軍事力で徹底的に弾圧、1000名にも及ぶ活動家が逮捕されたそうです。白色テロとは右派のテロの事ですが、弾圧する側とされる側が逆転したため凄惨な殺し合いとなりました。主に王党派が主導し、リヨンで99名殺害、マルセイユでも100名が革命左派と見られ殺されました。フランス全土での犠牲者は分かりません。膨大な数だったことは確かです。これをテルミドール反動と呼びます。

 ではロベスピエールの恐怖政治を倒したテルミドール右派はどのような政治を目指したのでしょうか?彼らは行き過ぎた左派的改革ではなく中道共和政を目指します。それが総裁政府でした。次回は総裁政府の混迷を描きます。