鳳山雑記帳はてなブログ

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日本人が知らない太平洋戦争

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 太平洋戦争と言って一般日本人が連想するのは1941年12月8日から始まる戦争だと思います。しかしこれは戦後GHQが押し付けた名称であり日本では大東亜戦争と呼ぶのが正しいです。一方、世界史では太平洋戦争と言えば1879年から1884年まで戦われた南米チリとボリビア、ペルーとの間の戦争を指します。

 チリという国は南北4300㎞、アンデス山脈の西麓を占める細長い国です。アルゼンチンの前身ラプラタの将軍ホセ・デ・サンマルティンサンティアゴ自治評議会のプエイレドンを助け5000の兵と共にアンデス越えして遠征、ペルー副王政府の駐屯軍を破って1818年独立した国でした。

 一方、ペルーはこのサンマルティンの遠征で一時独立するもペルー副王ラセルナの反撃を受け失敗、大コロンビア(コロンビアとベネズエラ)を独立させたシモン・ボリバルの来援を得て1821年ようやく独立できます。ボリビアもまたボリバルの部下スクレによって1825年解放されました。このボリバルとペルー副王ラセルナの戦いはそれだけで一本書けるほど面白いんですが、ここでは長くなるので割愛します。

 1800年当時、ペルーの人口150万人。ボリビアとチリはともに90万前後。インカ帝国全盛時1600万人を数えたこの地が、スペインの植民地支配でいかに荒廃したか分かります。チリの地理を簡単に述べると、北部砂漠地帯、中部が首都サンティアゴを含む農業地帯、南部はアンデスが海まで迫る山岳地帯でした。ペルーとボリビアインカ帝国でも分かる通り潜在的に大人口を養える地域ですが、植民地支配によって人口が激減し開発できなかっただけです。

 現在はチリの北部に含まれるアタカマ砂漠ですが、当時はペルーとボリビア領でした。実はボリビアは太平洋に面した領土を持っていたのです。一見不毛の地とみられていたアタカマ砂漠ですが、この地に硝石鉱山が見つかったことから領有権を巡り周辺諸国が争うことになりました。硝石は火薬の原料で莫大な収入をもたらすことは確実だったのです。

 これまで硝石と言えば硝酸カリウムの事で天然のものは少なく土壌中の有機物、動物の排泄物のアンモニアから人工的に作るものが主流でした。ところがアタカマ砂漠で見つかったのは硝酸ナトリウム、しかも無尽蔵ともいえる莫大な埋蔵量があったそうです。ペルーとボリビアは国境線南緯23度を挟む南緯22度から南緯24度までを両国で折半するよう取り決めます。ところがすでにチリ系企業が進出しており、ボリビア領アントファガスタ市などは90%がチリ系市民で占められていました。

 1878年ボリビアのダサ大統領はチリ系企業に輸出税を課税。チリが1874年の協定違反だとして拒否するとダサ大統領は硝石を禁輸し、チリ系企業を接収します。怒ったチリは、1879年2月チリ系硝石企業の保護を名目として5000名の部隊を派遣アントファガスタ市を占領しボリビア領の太平洋沿岸地域を制圧しました。ボリビアはペルーに援軍要請、4月チリがボリビア、ペルー両国に宣戦布告し戦争が勃発します。

 当時、チリ、ペルー、ボリビアはミニエー銃を使用していました。これは日本の戊辰戦争でも登場する小銃で前装式ながら銃身にライフリング(螺旋状の溝)が施してあり、椎の実上の弾丸を使用しそれまでのゲベール銃より長射程ではるかに威力があります。ただこのころすでに後装式のスナイドル銃や初期型のボルトアクションライフルであるシャスポー銃が登場しており過渡期にありました。もしかしたら日本の戊辰戦争のように一部の部隊は後装銃を使用していたかもしれません。

 陸軍はペルー、ボリビア連合軍が有利に進めます。海軍はチリ海軍、ペルー海軍とも装甲艦2隻が主力でした。ボリビア海軍は弱体で問題外。海岸線の長いチリは、イギリスから指導を受けて海軍整備をしており、装甲艦もペルーより新型でした。チリ艦隊はペルー領イキケ港を封鎖、これを破るためペルー艦隊が出撃し5月21日イキケ海戦が起こります。ペルー艦隊はチリ艦隊の木造船1隻を撃沈し封鎖を解きますが、自らも座礁事故で虎の子の装甲艦1隻を喪失、両国の海上軍事バランスが崩れました。

 制海権を奪われたペルー海軍はゲリラ戦で対抗するしかなくなります。10月8日アンガモス海戦でペルー海軍のグラウ提督が戦死、唯一残った装甲艦ワスカルもチリ側に拿捕されました。完全に制海権を握ったチリ艦隊は太平洋を北上し陸兵を上陸させペルーの要所を占領します。補給も海路行えばよいので決定的に有利となりました。1881年1月、チリ軍はついにペルーの首都リマに25000人の陸兵を進軍させ占領。ペルー政府はアンデスの山岳地帯に撤退し尚も抵抗を続けますが、新しく就任したイグレシアス大統領はついに降伏を決断しました。

 戦争の結果、ボリビアはアントファガスタ県など太平洋沿岸領土をチリに割譲、完全な内陸国になってしまいます。ペルーもそこに隣接するタクナ県、アリカ県を奪われました。ただ1929年チリは、タクナ県だけはペルーに返還しています。

 戦争に勝利したチリでは、アタカマ砂漠の硝石鉱山開発で北部への人口移動が起こりました。ドイツ系など多くの移民も受け入れ1925年から四半世紀で首都人口は30万人から55万人に、総人口も270万人から370万人に増加します。硝石の輸出で莫大な増収となり、鉄道などインフラ整備も進みました。ただ企業活動の活発化と共に労働運動が激化し、世界恐慌の影響もまともに受けます。一時は社会主義政権ができたくらいでした。

 1974年から始まるピノチェト大統領による軍部独裁政権における人権弾圧は記憶に新しいところです。民政移管されたのは1990年の事でした。