コピペする人も一応確認してくださいな。筑前博多は少なくとも戦国時代を語る人には常識ですよ。まあ突っ込みはこれくらいにして、せっかくだから私の調べた結果も書きましょうかね。ただし、専門書ではなくあくまでネット情報なので信憑性は保証しません。話半分に聞いて下さい。
中世の都市人口を語る前に、日本の総人口を語るのが先でしょう。これもはっきりした統計が無いのであくまで推定です。古代支那の漢帝国以降のように徴税のための戸籍があればある程度人口を把握できるんですがね。日本の人口は縄文時代以前は30万人以下だったそうですね。稲作伝播前は狩猟採集社会なのでこれくらいなんでしょう。
稲作が日本各地に普及した紀元後に100万の大台に達し、大和朝廷成立で国内が安定して以降300万を数えるようになったそうです。700年頃人口500万。900年頃600万。1200年の鎌倉時代には700万を超えました。人口1000万の大台に達したのはまさに戦国時代の1550年頃。1700年代に3000万弱。明治維新前後の1870年には3481万人にもなりました。
大正時代に5500万、昭和の戦争突入時の本土の人口7100万、1970年代にようやく1億人超えました。ですから少子化と悩んでますが、日本の農業生産力などから考えた適正人口って4000万くらいじゃないかと思います。今が多すぎるんですよ。
前置きが非常に長くなりましたが、平安京ができて以来の京都の人口は建設直後に20万を数え、戦乱で増減はありますがだいたい10万から20万の人口で推移したようです。一番激減したのは応仁の乱直後の4万人。前記事で書いた京都の人口10万というのは一時激減して回復途中の数字でした。織豊期以降は人口30万です。
その前の奈良の平城京でさえ最盛期に人口10万(750年)ですから、首都というのはそれだけ人が集まるんです。
前記事で書かなかった有名所の中世都市を紹介すると、奥州藤原氏で有名な平泉は1150年頃人口5万。結構栄えてますね。博多は1471年にすでに5万。戦乱で増減し一時減ったものの1600年には再び5万に回復しています。西国の大大名周防の大内氏の本拠山口は、1400年ですでに4万。大内氏滅亡後の1575年で人口9万に激増してますが謎です。1600年でもまだ8万いるんですよ。毛利氏が防長37万石で入部して萩を首都にしたので人口減ったと思ってたんですけどね。意外です。余程交通の要衝だったんですかね?
薩摩の島津氏の本拠鹿児島も1600年に人口4万5千。一番すごいのは大阪で秀吉が大坂城を築城したために1600年に人口28万と京都に匹敵する大都市になりました。石山本願寺の時代で人口10万は居たそうですから大発展する余地はあったんでしょう。都市拡張の時点で天王寺門前町も合併してますからね。
では徳川氏の江戸はどうかというと1600年はまだ人口6万。これが100万都市になるんですから驚きますね。参勤交代で全国から大名と武士を集め一大消費都市にしたのが発展の原動力となったのでしょう。武士が集まれば庶民も集まる。江戸に拠点を作るよう家康に勧めた秀吉の慧眼恐るべし!
ちなみに加賀百万石の金沢も1600年の人口5万だそうですから、有力大名の城下町=一大消費都市だったんでしょう。この考え方だと伊達家の仙台も凄そうです。逆に中世の都市で近世城下町や交通の要衝、宿場町、交易の湊町などに成長しなかったところは、次第に人口が減ったんでしょうね。
鎌倉とか幕府があった時は人口20万もいたそうですが、鎌倉幕府が滅び近世城下町にも湊町にもならなかったのでかなり激減したと思います。戦国時代は小田原の方が人口多そうです。前記事で書いた越中一向一揆の一大拠点瑞泉寺門前町など佐々成政が瑞泉寺を焼き討ちして以降激減したんじゃないでしょうか?
淀とか伊勢大湊とか古代からの交通の要衝はどの時代でもある程度の人口は維持したはずです。前記事の近江石寺って何であんなに人口多いか不明って書きましたが、近江商人発祥の地らしいです。納得!でも草津より本当に人口多かったのかな?などとイチャモンつけてみる。じゃなければ、信長は将軍義昭に堺・大津代官職と同時に石寺代官職を要求しなければおかしいでしょ。石寺じゃなく草津の代官職要求というのはこっちが発展していたと考えるのが自然。中世の近江草津の人口が知りたいですね。交通の要衝だという事は知ってますが…。
同じ近江の大津・坂本問題は坂本が延暦寺の門前町、大津が琵琶湖水運の要衝で共に人口1万5千は居たそうです。肥前長崎は弱小大名大村氏(失礼!)がイエズス会に寄進して貿易港で栄え1621年頃人口4万。豊後野津の人口2万というのは都市人口ではなく周辺の農村人口を合わせたものみたい。そしてその大部分は近隣の臼杵の人口だと思います。
信長時代の岐阜人口1万、近江安土は人口1万5千、意外と少ないですね。3万くらいは居そうな印象でしたが…。というか織田家の大規模遠征前には瞬間的に軽く人口10万超えそうだけどね(爆)。1582年の武田攻めの時とか。信忠勢10万、信長の本隊7万といわれますからね。ある程度は途中で合流するにしてもまず西国勢は安土に集結するでしょうから。
中世の人口ってなかなか面白い♪