シベリアの南東部にあるバイカル湖。湖水面31494平方キロメートル(琵琶湖の46倍)の三日月型の湖です。縮小中のアラル海を除くとアジア最大の湖だそうです。淡水で湖面が澄んでいる事で有名ですが水深は深くなんと最大1741mで世界一。
100年前、この地で悲劇が起こったことは意外に知られていません。例によってネタ元は『世界の奇談』(庄司和泉水著)ですが、いろいろ調べてみるとどうやら実話らしいという事が分かりました。ただ、確定ではないため不思議書庫記事とします。
時はロシア革命後に起こったロシア内戦まで遡ります。ロシア白衛軍の指導者の一人にアレクサンドル・コルチャック提督(1873年~1920年)という人物がいました。ロシア帝国の軍人あがりでなんと日露戦争にも参戦して旅順で捕虜になっています。その後第1次世界大戦時は黒海艦隊司令官・海軍中将でした。2月革命後帝政派から臨時政府側に移ったそうですが、渡米し帰途日本滞在中に10月革命を知りそのまま日本に二ヶ月半も滞在します。
滞在中日本軍部やイギリス政府と接触、イギリスの支援を受けて帰国、ウラル山脈南東オムスクで反ボルシェビキの臨時全ロシア政府の陸海軍大臣に就任。間もなくクーデターを起こし全権を掌握、軍事独裁政権を築きました。一時期は列強の支持、援助を受けてウラル以東の全シベリアを掌握したそうです。白軍(帝政派を中心とする反革命派)にとっては希望の星で、彼の元に旧ロシア帝国の軍人、警察官が50万人も集まり一大勢力になりました。旧ロシア貴族、僧侶とその子女ら革命下では生きていけない人々もここに逃れ、その数は125万を数えたといいます。
しかし、赤衛軍(ボルシェビキ派の軍隊。ソ連赤軍の前身)の勢いは強く1919年11月臨時全ロシア政府の首都オムスクは占領されてしまいました。コルチャックは列強の援助が受けやすい極東に移る事を決意します。ところがそこまでは直線距離で8000km、125万もの人間が無事に移動できるような距離ではありません。しかもシベリア鉄道があるとはいえ極寒のシベリアを横断することなど狂気の沙汰でした。
素人考えでは、寒さの心配がない南方、カザフ、ウズベック、アフガンを通ってイギリス勢力圏のインドに逃れた方がまだ生き残る確率が高かったように思えるのですが、コルチャックはシベリア鉄道の輸送力を当てにしていたのでしょう。ところがシベリア鉄道はいたるところでボルシェビキのパルチザンに寸断され間もなく使用不可になりました。結局徒歩と馬の移動になってしまい、厳しい寒さの中バイカル湖西岸のイルクーツクに一行が辿り着いた時25万人に激減していたそうです。ただ、コルチャックの頼みの綱は軍資金として携えてきたロシア帝国の遺産500トンにも及ぶ金塊でした。28両の武装車に積み込まれた金は1g=5000円と換算して現在の貨幣価値で2兆5000億円。優に一国を運営できる額です。
例年厳しいシベリアの寒さですが、この年はことのほか厳しく氷点下40度(例年は氷点下20度)という殺人的な寒さでした。女子供老人の多い一行が次々と倒れたのも当然です。イルクーツクも安住の地ではなくまもなく赤衛軍の総攻撃を受けることとなりました。敗残のコルチャック軍は当然支えきることはできません。シベリア鉄道も使用できないため凍結したバイカル湖の湖面を通って徒歩で逃れるしかありませんでした。1920年2月と言いますから寒さが特に厳しい時期です。この時はなんと氷点下60度というあり得ないくらいの気温になったそうです。
敵に追われ疲労困憊の一行にこれを乗り越える体力はありませんでした。猛吹雪に見舞われた一行は、弱い女子供老人を最初に次々と凍死していきます。何十台もの馬ソリに詰み込まれた500トンの金塊もそこに残されました。
間もなく春が到来します。バイカル湖を覆っていた分厚い氷も溶けだしました。湖上に残された25万もの遺体と500トンの金塊は世界一深いバイカル湖の湖底に沈みます。おそらく凍ったままだったでしょうから極寒の湖底に辿り着いた時再び凍って二度と浮き上がることはなかったと思います。
この逃避行を指導したコルチャックはどうなったでしょうか?実は彼は、同行していた味方であるはずのチェコ軍(もともとは第1次大戦時の捕虜)に裏切られボルシェビキ側に引き渡されていました。イルクーツクの軍事革命委員会は略式裁判で死刑を宣告。1920年2月7日、バイカル湖を発しエニセイ川に注ぐ支流アンガラ川のほとりで銃殺されました。