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イラン米大使館人質救出作戦

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 アメリカ合衆国第39代大統領ジミー・カーター、歴代大統領の中でも際立って無能、イラン米大使館人質救出作戦の失敗で本人のみならずアメリカの威信も地に堕ちました。イラン米大使館人質事件が1979年。1976年には有名なエンテベ空港奇襲作戦、そして1980年イラン英大使館占拠事件があり、イスラエルとイギリスが多少の犠牲はあったとしても人質を無事救出しともに輝かしい成功を収めたのに比べその醜態は目を覆います。

 世界一の軍事力を誇るアメリカが何故こんなことになったのか?詳細に検討していくと現代に通じる教訓が得られるはずです。それでは具体的に見ていく事にしましょう。

 カーターは、その前々任者ニクソンウォーターゲート事件で失脚し、後を受け副大統領から昇格したフォード大統領でも共和党の人気が回復できなかった事を受けて、クリーンなイメージだけで当選した民主党の大統領です。イメージだけで政権交代すればどうなるか、民主党政権の地獄を経験した日本人なら実感できると思いますが、この時のアメリカも同様でした。

 カーターは実際無能でいくつかの経済政策もことごとく失敗します。そんな中1979年中東の親米国家イランでイラン革命が勃発しました。パフラヴィー王朝は倒れ、ホメイニ師を頂くイスラムシーア派原理主義国家が誕生します。前政権が親米だっただけに新政権は当然反米に転じました。国王ムハンマド・レザー・パフラヴィーはフランス、パリに亡命します。

 1979年10月、パフラヴィー元国王が病気療養を理由にアメリカに入国を求めるとカーターはこれを許可、これに怒ったイランは元国王の引き渡しをアメリカに要求しました。当然アメリカは拒否。二週間後の11月4日、イランにあった米大使館は3000人を超えるイスラム法学校の学生たちが占拠、外交官とその家族ら52人を人質にします。イラン政府が、これを理由に元国王の引き渡しを人質解放の条件としたことから国家ぐるみのテロであることは明らかでした。

 カーター政権は対応に苦慮しますが、テロに屈して元国王を引き渡すことは国際信義上もアメリカの威信の上でも絶対にできません。当然、何らかの手段で人質を解放する必要がありました。しかし外交交渉はイランが拒否しているため現実的選択としては特殊部隊を派遣して奪還する以外にはなかったと言えます。

 ここで問題になってくるのは、カーター政権が大幅な軍縮を実行し特殊部隊の予算も削っていた事でした。対テロ特殊部隊デルタ・フォースが結成されたばかりとはいえ、予算不足で訓練もままならない状態だったと伝えられます。はっきりとは言えませんが、私はカーター政権に対して軍の不信感は相当あったと思うのです。

 カーター本人は外交手段での解決を望んでいたとされますが、ブレジンスキー大統領補佐官(安全保障担当)が強硬に人質奪還作戦を主張し積極策に押し切られます。こういうとき、一番重要なのは人質がどこに捕われているか?敵の警備の状況は?などの情報ですが、肝心のCIA自体イラン革命、政権崩壊を予測できなかったとしてカーターが権限、役割を大幅縮小していたところでしたから、最悪の条件で準備が始まったといえます。

 人質奪還作戦はデルタ・フォースが中心となって計画策定されますが問題は運搬手段でした。場所が敵地の奥深いイランの首都テヘランであったためです。ペルシャ湾ホルムズ海峡の外にいる米空母ニミッツとコーラルシーから発進したRH-53Dシースタリオン掃海ヘリコプターとオマーン沖にあるマシラ島から発進したC‐130輸送機がテヘラン南東400kmのカヴィール砂漠で合流、そこでヘリに燃料補給したあとヘリ部隊だけがテヘランに急行し人質を奪還した後、今度はそれとは別にサウジアラビアから発進するC-130に搭乗したレンジャー1個中隊が、テヘラン郊外で当時使用されていなかったマンザリア飛行場を占領、そこで人質を乗せ換え脱出するという作戦でした。

 カヴィール砂漠は標高800mの高地にあり元は塩湖の干上がったもので巨大な滑走路として使え、しかもあたりは無人なので問題なかったのですが、テヘランでの人質救出作戦はイラン軍の抵抗も視野に入れなければならず困難が伴う事は明らかでした。アメリカ軍はAC-130ガンシップも投入し空中支援まで検討したようですが、制空権を奪わなければそもそもガンシップの出番はなく、相当大規模な空母艦載機の支援が必要だと考えられていました。

 一見して無理な計画だと分かります。しかし、奪還作戦はすでに動き出していました。信じられない事に、陸海空軍と海兵隊の共同作戦であるにもかかわらず一度も合同で訓練しなかったそうですから失敗は目に見えていました。作戦に参加する部隊が一堂に会したのは作戦直前だったと言われますから絶望的です。しかも未だに人質がどの建物に居るか、警備の配置状況さえ分からなかったと云われます。

 1980年4月24日、イラン米大使館人質奪還作戦「イーグルクロー」はついに発動されました。カーター大統領は、部隊出発に作立ち「私はこの作戦に反対だがほかに方法がない」と発言したとされます。トップの覚悟のなさは部下に影響します。すくなくとも危険な任務に向かう兵士たちには絶対に言ってはいけない言葉でした。

 案の定、2隻の空母から発進したシースタリオン部隊は故障が続出しカヴィール砂漠の合流地点、デザート・ワンに到着した時1機が動けなくなります。残り6機、これは作戦遂行上ぎりぎりの機数でした。一方デルタ・フォース隊員を乗せたC-130輸送機3機は先にデザート・ワンに到着していましたが近くを通っていた(民間か軍用か不明)タンクローリーに発見され対戦車ロケットを発射します。運転手はかろうじて脱出し後から来たトラックに救出され現場を逃げ出しますが、これで極秘作戦がイラン軍に漏れる可能性が高くなりました。

 そこへ間の悪い事に予期せぬ砂嵐が起きます。これでヘリ部隊の目的地到着が遅れ二時間半という貴重な時間を浪費しました。そしてここでもヘリの油圧系に故障が生じまた1機が飛行不能となります。ヘリ5機では救出作戦は不可能です。選択肢は一つ、中止しかありません。部隊長はホワイトハウスに指示を仰ぎます。カーター大統領は「現場指揮官がそう言うなら作戦を中止しよう」と決断しました。撤退準備に入る作戦部隊でしたが、またしてもヘリが故障しコントロール不能となりました。あろうことかEC-130の左翼に激突してしまいます。火災が発生しヘリの乗員3名とEC-130の5名が即死します。負傷者も続出しEC-130とMC-130に全員搭乗し出発。乗ってきたシースタリオンは無事だった4機もすべて放棄、さらには5人の遺体まで現場に残さざるを得なくなったのです。惨憺たる失敗でした。翌25日、カーター大統領はテレビ演説で救出作戦の失敗を全世界に公表します。


 カーター政権は国民の支持を失い、1980年の大統領選挙で共和党ロナルド・レーガンに敗北しました。レーガンはリベラルで弱腰のカーター政権がアメリカの威信を失墜させたと考え強いアメリカ再建を掲げました。これがのちの湾岸戦争勝利へと繋がります。

 事を起こすとき、リーダーに必要なのは覚悟。信念無き指導者のもとではどんな事でも成功しない。しかし逆にリーダーが全責任を負って部下を送り出すとき、エンテベや英大使館のSASのように困難に打ち勝ち成功を遂げるのでしょう。現在の日本の政治家ははたしてどちらになるのでしょうか?イスラエルやイギリスのようになるのか、それともカーターのような醜態をさらすのか?

 尖閣竹島で、間もなく日本のリーダーの資質、そして日本人の覚悟が問われる事になると私は考えています。