鳳山雑記帳はてなブログ

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帝国陸軍戦車連隊

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 冒頭の表をみて実際の編制と違うと思われた戦記ファンは多い事でしょう。実際には
第1中隊が軽戦車(九五式軽戦車)13両、第2~第4中隊が中戦車(九七式、のちには一式と新砲塔チハ)10両、第5中隊が砲戦車中隊(砲戦車10両)で、連隊本部と合わせて軽戦車15両、中戦車31両、砲戦車10両の56両となるはずですよね。諸説あって全体で72両と言う資料もあり。
 
 これは旧軍火砲・機械化部隊の権威佐山二郎氏の「機甲入門」から引用した数字です。日本における数少ない機甲戦の専門家酒井鎬次中将らが提唱した機甲軍構想における理想的戦車連隊の編制表なのです。これによると軽戦車16両、中戦車47両、砲戦車10両で計73両。72両説に近い数字になりますね。
 
 しかし、機甲軍構想は旧態依然たる歩兵主体の戦闘に固執する陸軍幹部の理解を得られず戦車2個大隊を含む日本最初の機械化部隊独立混成第1旅団は解散させられ、戦車連隊はばらばらにされ各方面軍や軍直轄の部隊として分散させられました。
 
 ところで、日本の場合戦車大隊は創設当時を除き存在せず戦車中隊が直接戦車連隊に属する編制でした。ですから日本の戦車連隊は戦力的には列強の戦車大隊の規模にほぼ相当します。日本に4個しかない虎の子の戦車師団(第1~第4)は、この戦車連隊を4個(戦車定数292両)という恐るべき戦力を持つはずでしたが、戦記ファンにはご存知の通り一つとして定数を満たす部隊は存在しませんでした。しかも戦車師団単位で戦闘に参加したのは比島戦線の戦車第2師団と支那戦線老河口作戦に投入された戦車第3師団のみ。あとは戦車連隊単位でばらけて投入されました。
 
 ちなみに、本土決戦用に集められた戦車部隊の戦車保有数を書くと
戦車第1師団  173両
戦車第4師団  189両
独立戦車第2旅団  118両
独立戦車第3旅団  137両
独立戦車第4旅団  118両
独立戦車第5旅団  112両
独立戦車第6旅団  131両
独立戦車第7旅団  137両
独立戦車第8旅団  104両
戦車連隊(22、44、45、46、47、48)は略
 
などです。合計すると軽戦車446、中戦車662、砲戦車300、自走砲78などで1486両もありました。ただし主力は47㎜戦車砲装備の一式中戦車と九七式中戦車改(新砲塔チハ)で75㎜戦車砲装備の三式中戦車はたったの60両、M4シャーマンとまともに砲戦できると期待された四式中戦車に至っては終戦までに6両しか完成してないという悲惨な状況ではありましたが。
 
 これでは米軍の1個機甲師団にさえも対抗できません。しかも戦いが長引けばアメリカは90㎜戦車砲装備のM26パーシングを投入する事は確実でどうにもならない状況でした。現在の10式戦車などを見ると大東亜戦争当時とくらべて隔世の感がありますね。