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ドイツ騎士団の興亡Ⅵ  ドイツ騎士団の終焉(最終回)

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 タンネンベルクの敗戦は、ドイツ人にとって深い屈辱として残ります。はるか後年の第1次大戦中、東プロイセンでドイツ軍がロシアの大軍を破った戦いを場所が離れているにもかかわらず「タンネンベルクの会戦」と名付けたのもその表れでした。
 
 
 1410年7月17日、追撃を開始したポーランドリトアニア連合軍は早くも7月25日にはドイツ騎士団の本拠マリエンブルクを囲みます。タンネンベルクの戦いで総長以下主だった幹部を失ったドイツ騎士団では唯一生き残ったシュベッツ管区長プラウエンが籠城の指揮をとります。
 
 ところがこのプラウエン意外と名将で民間人も含む籠城軍を良く指揮し、何と2カ月も連合軍の猛攻を防いだそうです。リヴォニア騎士団がマリエンブルク救援軍を派遣したという報告を受けた連合軍は、挟撃を恐れ撤退します。
 
 
 こうして騎士団最大の危機は去りました。しかし連合軍との力関係は完全に逆転し、1466年の第2次トルニの和約でダンチヒや首都マリエンブルクを含む東ポメラニアをポーランドに割譲、残された領土はケーニヒスベルクを中心とする東プロイセンのみになります。
 
 さらにその東プロイセンさえ、ポーランド国王の宗主権が及ぶ地域とされ騎士団はポーランドと屈辱的な主従関係を結ばされました。東方植民というドイツ騎士団の歴史的使命はこの時終わります。
 
 
 第37代総長はアルブレヒト・フォン・ブランデンブルク(在位1511年~1525年)という人物でした。名前からも分かる通りブランデンブルク選帝侯家(ベルリンを中心とする地域)出身です。
 
 このアルブレヒトという人物は特異な人物で、1523年マルティン・ルターと会見して感銘を受け同調する騎士と共に騎士団を離れルター派(プロテスタント)に改宗しました。そればかりかポーランド王ジグムント1世に改めて忠誠を誓い、反対派の騎士たちをプロイセンから追放します。
 
 この段階で、カトリックを信奉するドイツ騎士団は終わりました。アルブレヒトは、1525年プロイセンポーランド国王宗主権下の世俗の領邦国家に作り替え、ホーエンツォレルン家(ブランデンブルク選帝侯家)が世襲するよう定めます。
 
 これがプロイセン公国の始まりでした。プロイセン公国ブランデンブルク選帝侯が同君連合として支配します。1660年ポーランドから独立、1701年大選帝侯フリードリヒ1世の時王号を称しプロイセン王国が誕生しました。
 
 アルブレヒトによってプロイセンを追放されたドイツ騎士団は、国家を失いわずかに残ったドイツ南部の所領を中心に細々と続きます。それも1809年には世俗領土をすべて失い、保護していたハプスブルク家も第1次大戦後滅亡。現在は慈善団体として存続しているそうです。
 
 
 こう言ってはなんですが、現在の状態こそ騎士団設立本来の目的に沿ったものだと思います。結成後800年を経てようやく正しい姿になったと言えるかもしれません。
 
 
 
                                   (完)