鳳山雑記帳はてなブログ

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ドイツ騎士団の興亡Ⅰ  誕生

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 15世紀の歴史地図を見ると現在のバルト三国あたりにドイツ騎士団領という国がある事に気付かれると思います。ただこの国の歴史に関して語られる事はありません。残念ながら高校世界史レベルでは西欧の歴史が中心で東欧史はおざなりになっているのが現状です。
 
 これは日本の世界史学会でも同様で、東欧史の研究者は西欧史に比べて甚だ少ないそうです。本シリーズではユニークな騎士団国家であるドイツ騎士団領を中心に、騎士団と大きく関わる当時東欧世界最強だったポーランドリトアニア連合を語ろうと思います。
 
 
 話は12世紀の十字軍時代にさかのぼります。皆さんは騎士団あるいは騎士修道会という名を聞かれた事はありますか?騎士修道会とはローマ教皇が認めた剣を持った修道会で騎士であると同時に修道士であった団体です。
 
 第一回十字軍でパレスチナに十字軍国家ができると、ヨーロッパからの巡礼者を守るためにいくつかの騎士修道会が誕生します。有名なのはテンプル騎士団聖ヨハネ騎士団チュートン騎士団などです。
 
 このチュートン騎士団こそドイツ騎士団でした。テンプル騎士団が巡礼者保護から次第に金融業に活動の中心を移し、聖ヨハネ騎士団が別名ホスピタル騎士団と呼ばれるように医療活動を専らにしたのに対し、ドイツ騎士団はドイツ出身者で結成され主にドイツからの巡礼者の保護を活動目的としました。
 
 ただどんな崇高な目的で結成された団体でも時がたつにつれ腐敗し、、世俗化していくのは世の習いです。騎士団関係者には甚だ失礼ながら騎士団が世俗化するのは意外と早いものでした。
 
 
 騎士団は十字軍国家や西欧からの十字軍とともに戦争に参加し、異教徒であるイスラム教徒を数多く虐殺しました。これでは現地住民の支持を得ることはできません。キリスト教の名のもとに虐殺する殺人集団、これが現地の人々から抱かれた騎士団のイメージでした。
 
 
 ドイツ騎士団は、イスラム教徒側の反撃でパレスチナの十字軍国家がことごとく滅ぼされ中東における拠点を失います。普通なら活動の意義を失ったのですから解散するはずでした。ところが既得権益を守りたいと云うのは人間の性なのでしょう。
 
 
 1210年、第4代騎士団総長ヘルマン・ザルツァはハンガリーアンドラーシュ2世に招かれ騎士団は中東からハンガリーへと移りました。ハンガリー王は騎士団にトランシルバニアを与え、そこを騎士団領としてクマン人(当時ウクライナにいたトルコ系遊牧民)から王国の南部国境を防衛する役目を与えます。
 
 このことはドイツ騎士団が活動の拠点を東欧に移しても変わりません。とくに東欧世界ではローマカトリックでないならギリシャ正教というキリスト教の一派さえ異教徒扱いされ虐殺されたのですからたまりません。これにはカトリック内部からでさえ批判が起き心ある司教や修道士たちは辺境における騎士団の残虐性をローマ教皇に訴えたりします。
 
 しかし騎士団は、神聖ローマ皇帝という世俗権力に巧みに取り入りこういう正義の声を力で圧殺しました。教皇庁内部も騎士団の豊富な資金力(それもほとんどは異教徒から略奪した財産!)の前に屈服したというのが現実でした。
 
 
 この段階ですでに騎士団は変容し、騎士修道会とは名ばかりのカトリック伝道を隠れ蓑にした世俗領主となり果てます。さらにザルツァが野心家であった事が話をさらに複雑にしました。
 
 
 次回は、騎士団がハンガリーを叩き出されバルト海沿岸地方へ東方植民する歴史を語ります。