鳳山雑記帳はてなブログ

立花鳳山と申します。ヤフーブログが終了しましたので、こちらで開設しました。宜しくお願いします。

比島決戦     ~ジャングルに散ったマレーの虎  前編 ~

イメージ 1
 
イメージ 2
                ※ マレーの虎の異名をもつ山下奉文 陸軍大将
 
 
 1944年7月、絶対国防圏の重要な一角であるサイパン島の日本軍が玉砕します。これにより日本の勝利は完全になくなりあとはいかに負けを小さくして講和するかにかかってきました。
 
 大本営は、アメリカ軍の次の侵攻目標としてフィリピン、台湾、本土、千島を想定しそれぞれ作戦計画を策定し捷号作戦(しょうごうさくせん)と名付けました。
 
 すなわち、
捷一号作戦…フィリピン方面
捷二号作戦…台湾、南西諸島
捷三号作戦…日本本土
捷四号作戦 …北海道、千島、樺太
です。
 
 このうち、一番可能性が高かったのはフィリピンでした。といいますのも南方資源地帯と本土を結ぶ途中にあるフィリピンを失陥すると日本は資源の供給を断たれ完全に干上がってしまうからです。
 
 
 大本営は、フィリピンを守備していた第14軍を第14方面軍に昇格させ満洲支那戦線から優良師団を引き抜き戦いに備えます。海軍も唯一生き残った正規空母である瑞鶴を旗艦とする第1機動艦隊(司令長官【第3艦隊司令長官兼任】・小沢治三郎中将)と大和・武蔵を擁する戦艦部隊である第2艦隊(司令長官・栗田健夫中将)、重巡部隊を主力とする第5艦隊(司令長官・志摩清英中将)を投入しました。航空部隊も陸軍の第4航空軍(富永恭次中将)、海軍の第1航空艦隊(基地航空隊、寺岡勤平中将)を配し、まさに大東亜戦争の天王山とすべく覚悟を決めていたのでした。
 
 陸軍がいかに比島作戦に賭けていたかは第14方面軍司令部人事でも分かります。方面軍司令官に、開戦時マレー1千キロを踏破してシンガポールを落とし「マレーの虎」の異名を持つ第25軍司令官(当時)山下奉文(ともゆき)大将を起用し、方面軍参謀長にも切れ者と評判の開戦時の軍務局長である武藤章中将を任命しました。
 
 おそらくこれ以上は無いという人事で、4個しかない虎の子の機甲師団のうち戦車第2師団も満洲関東軍から編入されました。
 
 
 比島決戦は、1944年10月10日台湾沖航空戦で火蓋を切られます。ハルゼー中将率いる第3艦隊(空母17隻をはじめとする95隻の大艦隊、航空機1000機)に対し、基地航空隊をはじめとする航空部隊を投入しこれを叩いたのです。
 
 米艦隊は激しく台湾を空襲しますが、これに対し我が軍は敢闘、10月19日までに空母19、戦艦4、巡洋艦7、駆逐艦他15隻を撃沈・撃破したと発表します。久々の大勝利に日本国内は沸き立ちますが、実は日本軍パイロットには新米が多く事実誤認をしたケースが多発し、実際は米軍に沈没艦なしという惨憺たる結果でした。
 
 
 幻の戦果に酔う大本営は、第14方面軍の山下司令官にレイテ島に上陸しつつあるマッカーサー率いる米上陸軍を叩くよう命令します。しかし、大戦果にもかかわらず一向に減らない空襲に山下司令官も武藤参謀長も報告に疑問を抱き当初の計画通り「ルソン島に主力を集め決戦に備えるべきだ」と反論しました。
 
 が、大本営は現地司令部の反対を無視しルソン島に兵力を送るよう強要しました。仕方なく山下司令官はレイテ島の防衛を担当する方面軍隷下の第35軍に増援として精鋭第1師団を送り込みます。この時は奇跡的に米軍の空襲も潜水艦の攻撃も免れ無傷で上陸することに成功しました。ところがその後送った第26師団と独立混成第68旅団は航空機と潜水艦の猛攻を受け兵器・物資の8割を失うという惨憺たる結果でした。
 
 実質レイテの第35軍は弱体化していた第16師団と第一次増援の第1師団のみで米上陸軍と戦わなくてはいけなかったのです。米軍はレイテ島にアイケルバーガー中将の第8軍(兵力20万)を投入します。
 
 
 最初に上陸した米第10軍団は、第1師団の奇跡的な防衛戦で防がれますが物量に勝る米軍は次第に圧倒、日本軍を西部山岳地帯に押し込め始めました。
 
 海軍も陸軍に呼応し作戦を開始ます。貴重な空母を持つ小沢艦隊が囮となって強大なハルゼーの機動部隊を北方に釣り上げそのすきに戦艦部隊である栗田艦隊がレイテ湾に突入しマッカーサーの上陸船団を叩くという計画でした。
 
 
 小沢艦隊は空母瑞鶴を失いながらも見事ハルゼー艦隊釣り上げに成功します。マッカーサーの輸送船団は丸裸になりました。ところが栗田艦隊はレイテ湾突入寸前謎の反転を行い千載一遇の好機を逃します。栗田の行動は戦後問題となりました。反転の理由は連日の航空攻撃(戦艦武蔵を失うほど!)で神経衰弱になっていたとも、輸送船団より空母艦隊の接近を知り(戦後これは誤報だったと分かる)そちらを優先したとも言わせますが、戦史上の謎となっています。
 
 日本側ではこの海戦をレイテ沖海戦(米軍呼称 サマール島沖海戦)と呼びます。台湾沖航空戦の誤報から始まったレイテ島の戦いは、勝機を完全に失ったまま絶望的な戦いが繰り広げられました。
 
 第35軍は、レイテ島の西北カンギポット山に立て籠もり抵抗を続けます。1944年12月15日、米軍はルソン島に隣接するミンドロ島に上陸を開始、レイテでの抵抗は無意味となりました。山下方面軍司令官は、12月25日第35軍に対し現地自活・持久戦を命じます。これは事実上の終局宣言でした。1945年1月、第1師団の生き残り800名がセブ島脱出に成功しますがそれ以後の撤退作戦は上陸用舟艇が空襲でやられたため中止されます。レイテ島で日本軍は実に8万近い戦死者を出しました。これは第35軍の総兵力の9割を超えほとんど全滅といって良い惨状です。
 
 
 戦いはいよいよルソン島に近づきつつありました。山下将軍はどのように抵抗するのでしょうか?後編では第14方面軍の激闘を描きます。