今まで中世ヨーロッパの歴史をローマ教皇権の消長を軸として見てきました。ローマ教皇権が最大にまで拡大した時が1077年に起こった事件『カノッサの屈辱』ならその衰退を象徴するのが教皇の『アヴィニョン捕囚』です。
ところがローマ教皇の権威を地に落としたのはドイツの皇帝ではなくフランス国王でした。フランスもまた自国の王権強化のために長年ローマ教皇庁と対立してきました。しかし歴代フランス国王が利口なのは王権強化のために時にはローマ教皇の力を上手く利用してきた事です。たとえばフランスの王権が南フランスにまで拡大できたのはアルビジョワ十字軍(1209年~1229年)の果実を手に入れる事が出来たからでした。
カペー朝第11代フリップ4世(端麗王、在位1285年~1315年)の時代、フランスの王権はこれまでになく強大化していました。そしてローマ教皇庁の権威は十字軍の失敗により少なくともフランス国内においては崩れ出していたのです。
フィリップ4世は、財政難を解決するためフランス領内の教会、修道院領に課税します。治外法権を謳歌していたフランスの聖職者たちは時のローマ教皇ボニファチウス8世(在位1294年~1303年)にフランス国王の横暴を訴えました。
その後フィリップがナルボンヌの所領問題でナルボンヌ伯に有利な裁定をしナルボンヌ司教領を削って伯に与えたことで事態は深刻化します。司教の訴えを受けた教皇はフィリップに司教領を返すよう強硬に申し出ました。
これに対しフィリップは、ナルボンヌ司教を逮捕し1301年その免職を教皇に迫りました。ここまで馬鹿にされては教皇ボニファチウス8世も引っ込みが尽きません。両者の対立は先鋭化していきました。教皇はフランス領内の司教たちをローマに集めフィリップに従わないよう命じました。
怒ったフィリップは、逆に1302年フランス国内の聖俗諸侯や有力市民たちをパリのノートルダム寺院に集め国王への忠誠を誓わせます。これが三部会の始まりです。第一部会が聖職封建諸侯、第二部会が世俗封建諸侯、第三部会が有力市民の代表で構成されていました。
法曹の一人ノガレは決議を実現すべく支持者や兵士たちを引き連れ1303年ローマ近郊のアナーニーに滞在していたボニファチウス8世を襲撃するという暴挙を起こしました。これがアナーニー事件です。一時は教皇を捕虜にしますが、やがて教皇側の反撃で撃退され失敗します。ただこの時のショックでボニファチウス8世は事件後一カ月もしないうちに病死しました。
ボニファチウス8世の死後、教皇庁はフランス派の枢機卿が力を持ちべネディクト11世の短い治世の後フランス出身のクレメンス5世(1305年~1314年)が即位します。クレメンスはフィリップ4世の意のままに動く傀儡にすぎませんでした。
フィリップ4世は、1308年クレメンス5世をフランス国内の教皇領の飛び地であるアヴィニョンに招きました。表向きは教皇にテンプル騎士団裁判などを依頼するためでしたが、その実態は体の良い脅迫でした。教皇は一時的滞在のつもりでしたがフィリップが国境を閉ざしたためローマ帰還が不可能になります。
これがアヴィニョン捕囚です。フィリップ4世はアヴィニョンの教皇にテンプル騎士団の裁判を強要します。教皇は騎士団が異端でない事を知っていましたから最初拒否しますが、王の圧力に負け裁判を始めました。フィリップ4世は騎士団の持つ莫大な財産に目を付け無実の罪に陥れその財産を奪う気でした。騎士団は幹部をことごとく処刑され滅ぼされます。フィリップは莫大な財産を手に入れました。
いくらフィリップ4世に脅迫されたからとはいえ、教皇自身がこの出鱈目な異端裁判に加担した事はヨーロッパ中の非難を受けました。ますます教皇権は弱体化していきます。結局、教皇のバビロン捕囚ともいうべきアヴィニョン滞在は70年続きました。
ローマ教皇がローマに戻った時、すでに精神的な権威だけの存在に成り下がっていました。以後二度と世俗に権力をふるう事はなくなります。