※ダレイオス1世
ダレイオスは、キュロス王家の遠縁に当たります。キュロス2世の祖父キュロス1世とダレイオスの曽祖父アリアラムネスが兄弟でした。この程度の血縁で王位を継ぐ事が出来たのが不思議です。ただダレイオスの父ヒュスタスべスは重要な地位に就いておりヒルカニアとパルティア(イラン高原北東部)のサトラップ(総督)を務める大貴族でした。ダレイオス本人もカンビセス2世の槍持ちとしてエジプト遠征に従軍しています。
これは王の信任が厚い側近しか就けない役職で、高い地位でした。ダレイオスはバビロンのサトラップ、ゴブリュアスの娘と結婚しており三人の子供がいました。実家の実力も閨閥もたしかに王たるにふさわしい力を備えています。この力を背景にダレイオスは力づくで王位を奪ったのでしょう。
彼の王位継承は万人に認められたものではなかったようです。王国各地で反乱が続発しその鎮圧に追われます。しかしダレイオスは、着実にそれを平定しキュロス2世が創業したアケメネス朝ペルシャを完成させました。
ダレイオスは、国内を20のサトラペイア(州)に纏め、サトラップ(総督)を派遣して支配しました。また「王の目」「王の耳」と呼ばれる監察官を各地に派遣します。彼の時代に新都ペルセポリスを建設しますが、ここは宗教都市にしか過ぎなかったという説があります。王国の中心は政都スサであり続けました。
アケメネス朝ペルシャの拡大は、ギリシャ人たちと衝突する運命でした。ギリシャ人は本土のみならず商圏を求めて地中海各地に進出していました。ペルシャの支配下にある小アジアにもエーゲ海沿岸イオニア地方を中心にギリシャ人の植民都市が数多くありました。最初は緩やかな従属関係を結んでいましたが、ダレイオスのスキタイ遠征失敗を見て小アジア西岸イオニア地方のギリシャ人が反乱を起こします。
イオニアのギリシャ人たちは本土に応援を求めました。こうしてアケメネス朝ペルシャとギリシャのポリス(都市国家)連合との50年に渡るペルシャ戦争が始まります。戦争の途中でダレイオス1世は死去し、息子のクセルクセス1世に受け継がれました。
紀元前480年、百万とも号するペルシャの大軍が陸路ギリシャ本土を襲います。これを迎え撃ったスパルタ王レオニダス指揮下のギリシャ軍はテルモピュライの隘路で激突し全員玉砕。ギリシャの運命は風前の灯と思われました。
ところがアテナイでは全市民が海上に逃れ、サラミス湾で海軍同士の決戦が行われます。そこでアテナイ海軍は歴史的な勝利をあげました。陸路をすすんでいたクセルクセス1世は、退路を断たれる事を恐れ撤退しますが、軍の主力は依然としてギリシャ本土に残されました。翌年、プラタイアでペルシャ軍とギリシャ連合軍の間に戦いが起こりますがここでもギリシャ軍が勝利しました。
大軍とはいえ各地から寄せ集められ戦意の低いペルシャ軍と負けたら滅亡するギリシャ連合軍の気合の違いだったのでしょう。以後クセルクセスは陸路からのギリシャ侵攻を諦めます。戦線はこのまま膠着状態に陥りました。
とはいうものの超大国であったアケメネス朝ペルシャはギリシャ世界に影響力を与え続けました。アテナイとスパルタを盟主とするポリス群が争ったペロポネソス戦争でも、両陣営はペルシャの援助を勝ち取るべく競い合ったそうです。
その後ギリシャ社会とペルシャは共に衰退していきます。ペルシャ末期の王たち、アルタクセルクセス3世、アルセスは共に宦官パゴアスに暗殺されるなど王朝は混迷を極めました。アケメネス朝最後の王ダレイオス3世は、そういった混乱の中傍系から王位を継ぎます。ですから最初から求心力がなかったのです。
紀元前330年、アレクサンドロスとのガウガメラの決戦に敗れバクトリアに逃れていたダレイオス3世は、サトラップ(総督)ベッソスに裏切られて殺されます。アケメネス朝はこれで滅亡しました。世界帝国の栄光を築いたアケメネス朝ペルシャの最期というにはあまりにも哀れな出来事でした。