鳳山雑記帳はてなブログ

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ニューギニア戦線における三式戦闘機「飛燕」戦闘機隊

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 1941年12月8日真珠湾攻撃で開始された対米戦。緒戦の快進撃は1942年6月5日のミッドウェー海戦の敗北で頓挫し、1942年8月には早くも米海兵隊がガタルカナル島に上陸、日米両軍はソロモン諸島の支配権を巡って泥沼の消耗戦に突入していました。
 
 もともと日本海軍のガ島進出は、米豪連絡線を遮断しオーストラリアを戦争から脱落させる目的でしたが、その一環としてニューギニア島を攻略し連合軍の一大航空基地ポートモレスビーを攻略するため1942年3月7日、東部ニューギニアのサラモア、ラエに日本軍は上陸していました。
 
 最終的に同地に展開した日本陸軍は20万にもおよび、その上空支援のために第6飛行師団が編成されました。当初陸軍航空隊はラバウルの海軍航空基地を間借りして展開していましたが、ニューギニア北部沿岸地帯を地上部隊が占領すると、1943年4月ニューギニア北部ウェワクに移動します。
 
 第6飛行師団は、戦闘機部隊として第1戦隊、第11戦隊を持っていました。ところが装備する一式戦闘機隼が、米軍のロッキードP-38ライトニングに対抗できず非常な苦戦をします。
 
 高速で一撃離脱戦法に徹するP-38を、隼では捕捉できないのです。敵が格闘戦に付き合えば運動性の高い隼は十分勝機がありましたが、パワーダイブで逃げられると手も足も出ません。脆弱な機体の隼では、無理に追いかけても空中分解するのがオチでした。
 
 当時空戦でP-38に対抗できるのは二式戦闘機鍾馗だけでしたが、こちらは航続距離が短く侵攻作戦には不向きでした。
 
 そこで、陸軍はより高性能でそこそこの航続距離がある新鋭戦闘機、三式戦闘機飛燕のニューギニア投入を決断します。
 
 しかし、飛燕はようやく航空審査部での試験を終えたばかりでぼつぼつ量産体制に入っていた所でした。ドイツ製ダイムラーベンツDB601をライセンス生産したハ40液冷エンジン(離昇出力1175馬力)を搭載した飛燕は、非常にデリケートな機体でした。
 
 わりあい乱暴に扱っても大丈夫な空冷エンジンと違い、液冷エンジンは冷却液の液漏れでも致命傷になってしまいます。ニューギニアのような過酷な戦場では十分な整備体制もとれずまともに稼働するかどうかも危惧されていました。
 
 しかし軍上層部は、関係者の反対を無視し戦局を挽回するため強引に飛燕のニューギニア派遣を決めたのです。
 
 1943年3月第14飛行団隷下の第68戦隊、第78戦隊が最初の飛燕装備部隊として満洲で編成されました。九七式戦闘機や隼のような運動性重視の軽戦闘機に慣れていたパイロットたちは勝手の違う戦闘機に戸惑います。また初めての液冷機を扱う整備陣にとってもそれは同様でした。しかもただでさえ新鋭機は故障が多いものです。部隊長は軍上層部にもう少し錬成の時間をくれれば戦力として使い物になると意見具申しますが、戦局の悪化で余裕の無くなっていた上層部はこれを拒否、直ちにニューギニアへの移動を命じました。
 
 部隊はまず空母でトラックに運ばれ、そこからラバウルまで長距離飛行の訓練も兼ねて空中移動する運びとなります。しかし洋上飛行に慣れない陸軍機は水先案内の大型機がなければとても目的地到着は難しいのです。
 
 ところが68戦隊を先導するはずの一〇〇式司令部偵察機が故障し発進できないというトラブルが発生します。
 
 ここで出発を延期する事も出来ましたが、戦場で苦戦する友軍を考えるととてもそんな事ができる余裕はなく、戦隊長下山中佐は、先導機なしで発進させました。
 
 そしてやはり慣れない洋上飛行でコースを外れ次第に東にずれだします。しかも最悪な事に無線機が故障していたため戦隊がコースのずれに気付いたのはかなり後でした。
 
 飛燕は、トラックからラバウルに移動するのがぎりぎりの航続距離で、コースのずれは致命的でした。燃料切れで次々と洋上に不時着し先発隊12機のうち10機を失うという大事故になりました。遭難者の捜索も広い洋上で困難を極め3名のパイロットが未帰還者となってしまいます。飛燕戦隊の未来を暗示させる悲劇でした。
 
 
 様々な困難を経験しつつ、飛燕戦闘機隊はまずラバウルを根拠地に作戦を開始します。第6飛行師団の稼働戦闘機数は80機、そのうちわずか20機が飛燕でした。(残りはすべて隼)。一方、東部ニューギニアを担当する米第5航空軍は1943年5月当時で作戦機750機を数える大軍でした。日本軍第6飛行師団は爆撃機を含めてもわずか283機、実質的な戦力差は3倍もありました。
 
 飛燕は、カーチスP-40に対しては有利に戦えましたがやはりP-38にはようやく互角、数の上での不利を考えると依然劣勢でした。稼働率も当初予想されていた通り資材がそろわず整備陣の必死の努力にもかかわらず落ち込む一方でした。
 
 一時期は、稼働機6機という惨状まで経験します。
 
 
 6月に入ると先発していた第68戦隊に続き、満洲で錬成を終えた第78戦隊がようやくニューギニアに到着しました。
 
 68戦隊、78戦隊を擁する第14飛行団はウェワクに展開し、すっかり消耗しきった第12飛行団(1、11戦隊)は再編成のため内地経由で満洲に戻ります。
 
 ウェワクを発進し地上部隊支援や重爆の護衛ミッションをする時もあれば、飛行場に来襲したノースアメリカンB-25ミッチェル、ロッキードP-38ライトニングの戦爆連合との死闘もありました。
 
 数で劣勢な飛燕戦闘機隊は苦戦の連続でしたが、それでも必死に戦い続けます。10月、米軍は新鋭のリパブリックP-47サンダーボルト戦闘機を擁する第348戦闘航空群をニューギニア戦線に投入してきました。
 
 ところが日本軍パイロットの証言では、最初は意外と戦いやすい相手だったそうです。というのも機体性能に自信のあるサンダーボルトはパワーダイブで逃げず格闘戦に付き合ってくれたからです。さすがに中盤以降は、P-38に習ってパワーダイブで逃げるようになったそうですが…。
 
 
 苦しいばかりの戦場で、日本軍にも良い事がありました。ドイツから輸入したマウザー(モーゼル)MG151 20㎜機関砲が到着したのです。MG151は、捕獲したアメリカがコピーしようとして失敗したほどの優秀機関砲で威力も大きく何よりも故障しにくいという利点がありました。
 
 わずか800門の輸入でしたが、陸軍は優先的に飛燕に装備させることに決定します。これが飛燕1型丙ですが、先行生産された1型甲、1型乙もマウザー砲を搭載すべく改修されました。マウザー砲搭載型飛燕は1944年7月までに388機生産されます。
 
 マウザー砲の威力をみたパイロットは、「これならB-17も1発で撃墜できる」と感嘆したそうです。
 
 
 しかし、このレベルの20㎜機関砲を開発できないのが技術力の低い日本の弱点で、マウザー砲の代わりに航空機搭載すべく開発されたホ5 20㎜機関砲はマウザー砲に比べるとかなり威力が劣ったそうです。
 
 
 マウザー砲搭載型飛燕は、ニューギニアの戦場にもぼつぼつ到着してきました。実戦での威力は絶大で双発のB-25なら1発、大型の4発重爆B-24でも数発当てれば空中分解させられたそうです。
 
 ただマウザー砲装備のわずかな飛燕だけで戦局がひっくり返されるほど甘くはなく、増強される一方の米軍航空部隊の前に苦戦は続きました。
 
 1944年3月に入ると日本軍の劣勢は明らかとなります。4月米海軍第58任務部隊の艦載機群によってホーランジャが大空襲され第6飛行師団の装備機はほぼ全滅しました。間もなくホーランジャに米軍が上陸、装備機を失った陸軍航空隊は山中に立て籠って抵抗します。
 
 7月25日、もはや戦力再建の可能性はなく参謀本部は第14飛行団および68、78両戦隊の解散を命じました。
 
 
 解散命令から2日後の7月27日、第68戦隊の生き残りわずか3機の飛燕が100機以上の米軍航空隊に戦いを挑み玉砕しました。これがニューギニアにおける飛燕戦闘機隊最後の戦いです。
 
 
 以後航空隊の生き残りはジャングルを彷徨し、あるいは餓死、あるいは病死し、撤退する地上部隊と合流できたわずかな数が現地自活で何とか生き延びました。
 
 
 
 補給能力の限界を超えたニューギニアの過酷な戦場、その中で苦闘を続けた飛燕戦闘機隊。絶望的な戦況でも戦い続けた彼らには頭が下がります。
 
 
 一方彼らを地獄の戦場に追いやった国家指導部は反省しているのでしょうか?環境を整えるはずの彼らに戦争のグランドデザインが無かった事が一番の悲劇だと思います。
 
 
 竹島尖閣問題を見るにつけ現在の日本政府もいき当たりばったりの対応をしているにすぎません。当時の国家指導層と全く同じなのではないでしょうか?確固たる信念に基づいた国家戦略、これなくしては外交も戦争もままならないのです。