鳳山雑記帳はてなブログ

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元寇   Ⅲ 文永の役

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 1274年(文永11年)10月5日午後、対馬の住民は佐須浦(現在の小茂田海岸)沖に、海を埋め尽くす夥しい数の軍船を見ます。
 
 急報は対馬守護代宗助国(守護は少弐氏)のもとへ告げられました。助国は八十余騎を率いて現場に駆けつけます。最初助国は通訳の真継というものを派遣して仔細を尋ねようとしました。しかし敵は千人ばかりが降り立ちいきなり矢を射かけてきました。
 
 助国は急いで陣を整え応戦しますが多勢に無勢、次第に追い詰められ助国を始め嫡子右馬次郎、養子弥次郎、庄の太郎入道、肥後国住人田井藤三郎ら主だった者十二人がことごとく討ち死にしあえなく敗退しました。
 
 元軍は対馬を占領します。急報は生き残った住人によって博多にもたらされました。次に元軍は壱岐を襲います。ここでも守護代平景隆が果敢に抵抗しますが全軍玉砕しました。
 
 
 10月19日午前八時ころ、元軍は博多湾に侵入しました。陸では日本軍が待ち構えます。大宰少弐武藤資能を大将にその子景資、経資、鎮西奉行大友頼泰らが指揮をとり、臼杵、原田、菊池、松浦党ら九州の御家人たちから成る軍勢でした。総勢十万余騎と伝えられますがもとより誇張でしょう。一説ではこの時博多近郊にいたのはわずか一万ほどだったともいわれます。
 
 そのほかの御家人たちは戦場である博多湾に急行中でした。
 
 満を持して元軍は上陸を開始します。この時異国との戦になれない鎌倉武士たちは一人一人名乗りを上げて一騎打ちを求め集団戦法の元軍に包みこまれ討たれたり捕虜になったといわれます。
 
 
 ただ、私はこの俗説に異論を持っています。たがいに名乗りを上げての一騎打ちは国内でもかなりのレアケースで、ましてや日本の戦のしきたりが通じない元軍に対してそんな事をするでしょうか?
 
 
 私は、慣れないまでも鎌倉武士たちは敵の集団戦法にすぐに対応できたと考えています。この時の元軍の主力は歩兵でした。さすがに海を越えて騎兵を運ぶ事はできません。指揮官級の者だけが騎乗で、後は徒歩の集団戦法で戦いました。
 
 元軍は、鉦や太鼓で軍を進退させます。最初日本軍はこれに面喰らったそうです。一方日本軍の強みは主力の鎌倉武士。準重装騎兵で遠距離で弓、近距離で太刀を操り、馬格は劣るものの耐久力の強い日本馬で機動力で有利でした。
 
 ただ大陸の兵である元軍は、当時最高性能の合成弓であるトルコ弓を使い有効射程で和弓を圧倒したといいます。トルコ弓がだいたい2~300m、和弓は最大でも200m前後だったそうですからその点不利でした。
 
 
 鎌倉武士も奮戦しましたが初日の戦闘は苦戦しました。箱崎、今津、博多、赤坂は元軍に占領され日本軍は大宰府に近い水城(みずき)に退き防衛線を築きます。
 
 この時父から前線の大将を命じられた武藤景資さえ敵軍に追われて逃げまどう始末。ただ彼は逃げながらも振り向きざま敵の大将と思しき武将に矢を射かけます。それが見事に命中。彼は難を逃れました。
 
 なんとそれは敵の副元帥劉復亨でした。戦況は元軍有利でしたが、副元帥の一人が戦死した事もあって元軍も船に引き揚げました。今後の作戦会議を開くためだったと言われます。
 
 
 その晩、博多湾に大嵐が吹き荒れました。一夜明けて見ると湾を埋め尽くした軍船は跡かたもなく無くなっているではありませんか!日本軍はキツネにつままれたような表情をします。
 
 渡海出来るほどの船が大嵐くらいで難破するだろうか?という当然の疑問から神風説が発生したのだと思いますが、前に見たとおり元軍の船は高麗のサボタージュによって手抜き工事がなされ通常より脆弱だったのでしょう。
 
 元船のあるものは玄界灘の藻屑と消え、あるものは博多湾に打ち上げられます。多くの元兵が溺死しました。命からがら高麗に逃げ帰った船は半数にも満たなかったそうです。
 
 鎌倉武士は、残敵を掃討します。私はこの勝利は神風などではなく鎌倉武士の奮戦にあったと思っています。敵は最大でも四万、それに対し日本軍は最大十万近い大軍を集結できます。しかも戦場は日本国土。山がちの地形。地の利は日本軍にあります。暴風が吹かなくてもいずれは元軍を撃退できた可能性が高いと考えるのです。
 
 
 10月下旬、元軍襲来の報告を受けた鎌倉は色めき立ちます。急いで中国以西の守護たちに御家人はもとよりそれ以外のすべての武士を動員して敵に当たるよう命じました。
 
 
 しかしそのころすでに元軍は敗退していました。勝報が京都六波羅にもたらされたのは11月6日。