鳳山雑記帳はてなブログ

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承久の乱    後編

 後鳥羽上皇は、朝敵になった義時に従うものは千人もおるまいとたかをくくっていました。
 
 北条氏に不満を持ち宮方に奔った三浦胤義(義村の弟)などは
「兄に日本総追捕使の位を授けられますなら、必ずお味方に付く事でしょう」と上皇の機嫌を取ります。
 
 
 上皇方は、三浦義村を含む全国の御家人たちに「朝敵北条義時を討てば恩賞は思いのままに取らせる」との院宣を乱発します。しかし宮方につく武士はほとんどいませんでした。それどころか「いざ鎌倉へ!」と続々と鎌倉方は増幅していきます。
 
 
 院宣と共に弟胤義からも密書を受け取った義村は、逆に書状を幕府に提出しました。義村の読みは、『宮方に勝ち目なし』でした。兵力差もさることながら、御家人たちが自分達の武家政権を選択した以上宮方の勝利する可能性は万に一つもないと思ったのです。
 
 であるなら北条氏に恩を売っておくことが得策。義村は一族をあげ率先して討伐軍に加わりました。感情的になって宮方に加わった弟を捨てたのです。
 
 
 戦は勢いです。朝敵がどうのこうのより勝つ方につくのが生き残る道です。日和見の武士たちも上洛軍が近づくと続々とこれに加わりました。
 
 
 宮方は、思いのほか自軍の集まりが悪いので積極策を捨てました。とりあえず藤原秀康に一万七千余騎を与えて幕府軍主力の東海道軍を美濃・尾張国境で防がせます。
 
 しかし、勢いに乗る幕府軍はこれを鎧袖一触。武田信光らの率いる東山道軍も美濃大井戸で宮方の大内惟信勢二千騎を撃破、宮方は敗走しました。
 
 
 瀬田に最後の防衛線を築いた宮方でしたが、ここも簡単に突破され総崩れになります。
 
 
 美濃・尾張での敗報を聞いた宮方は大混乱に陥りました。後鳥羽上皇は自ら武装比叡山に登って僧兵の協力を求めましたが、勝ち目のない上皇を見限った比叡山はこれを拒絶します。
 
 幕府軍は京の都に乱入しました。上皇方の武士、三浦胤義、藤原秀康らは最後の一戦をせんと御所に駆けつけますが、すっかり怖気づいた上皇はかたく門を閉ざして武士たちを中に入れませんでした。
 
 「大臆病の君に騙られたわ」とはこの時の山田重忠の発言だと伝えられます。
 
 
 後鳥羽上皇幕府軍に使者を送り「このたびの挙兵は謀臣たちにたばかられての事で朕は悪くない。義時追討の院宣も取り消す」と泣き言を言ってきました。
 
 哀れなのは上皇に見捨てられた宮方の武士たちです。東寺に立て籠って絶望的な抵抗をしますが、ことごとく自害して果てました。
 
 
 しかし上皇の言い訳が通用するはずもありません。7月、乱の首謀者後鳥羽上皇隠岐に流されます。またそれに同調した順徳上皇佐渡に遠島。
 
 哀れなのは土御門上皇でした。父後鳥羽上皇や、弟順徳上皇を諌めながら乱をとどめることができなかったと自ら幕府に申し出、土佐に配流となります。仲恭天皇順徳上皇の子)は廃され、新たに後堀河天皇が即位しました。
 
 
 このほか、乱に加わった公卿は処刑されるか、流罪になります。宮方の武士への処断は苛烈を極め例え幕府重臣の親族でさえ多くが粛清されました。
 
 後鳥羽上皇の持っていた広大な荘園は幕府に没収され、宮方の公卿、武士の所領も取り上げられ功績のあった武士たちに分配されます。
 
 
 以後、幕府と朝廷の力関係は完全に逆転しました。幕府は新たに六波羅探題を設置し朝廷や西国武士を監視します。朝廷は新たな天皇が即位するのにさえ一々幕府にお伺いを立てるまでに落ちぶれました。
 
 
 持明院統大覚寺統皇位争いはまさにこれに端を発します。
 
 
 
 名実ともに武士の世が来たのです。私は鎌倉幕府の覇権確立は結果的に良かったのではないかと考えます。元寇の時、平安時代さながらの摂関政治院政が続いていたらと想像するとぞっとします。
 
 武士の主導する軍事政権だったからこそ国を滅ぼさずに済んだのです。
 
 
 その意味では、日本の歴史は必然であったと感慨深いものがあります。