

1219年2月2日、鎌倉からの急使が京都に到着します。鎌倉三代将軍源実朝が暗殺されたという報告は京の朝廷にも強い衝撃を与えました。
鎌倉幕府成立の時期に関しては諸説ありますが、すくなくとも摂関政治、院政を含めた朝廷統治に完全にとってかわったのは1185年の守護・地頭の設置だと思います。とくに地頭はそれまでの貴族の経済的基盤だった荘園のうち半分の収穫を兵糧米として挑発する権利を持つことから貴族支配そのものを揺るがす大事件でした。
この時代、まだまだ鎌倉幕府の支配は盤石ではありませんでした。幕府に不満を持つ武士たちも多く、これらを糾合すれば朝廷側に十分勝機があると彼が考えたのも理解できます。
鎌倉方は、京都に使者を遣わし新将軍に後鳥羽上皇の皇子雅成親王を迎えたいと申し出ます。しかし上皇は無理難題を条件に付けこれを拒絶。皇族将軍を諦めた鎌倉方は、摂関家から九条頼経(頼朝とは遠縁にあたる)を新将軍として迎える事となりました。
上皇がいつから幕府を討つことを考えていたかは諸説ありますが、もしかしたらこの時には討幕を決意していたのかもしれません。1219年6月わずか2歳の幼い将軍は武士たちに迎えられ鎌倉に下向しました。
幕府と朝廷の対立は次第に深刻化していきました。後鳥羽上皇の討幕計画はあまりにも危険だと、息子の土御門上皇は諌めますがかえって遠ざけられます。上皇の暴走を恐れる摂政近衛家実ら朝廷の公卿たちも反対しますが、上皇はかえって意固地になって討幕計画を進めました。
1221年5月、上皇は流鏑馬揃えを口実に諸国の武士を集め1700騎が結集しました。その中にはたまたま在京していたために無理やり軍勢に加えられた武士たちもいたようです。そしてついに1221年(承久三年)6月、北条義時追討の院宣が発せられます。世にいう承久の乱の始まりです。
すると一人、大江広元が言葉を発します。
「朝敵なにほどのものぞ。断固討つべし!」
広元は、ここまま手をこまねいていると座して死を待つことになること、朝廷の軍勢は勢いに乗っている間は強いが、ひとたび不利になると崩れるのも早いことなどを説いて執権義時に決断を迫りました。
そんな中重病で隠棲していた三善康信が病躯をおして御所に参上します。彼も広元と同じ事を主張しました。
朝廷を熟知していた二人の発言を聞いて義時も覚悟を決めます。さらに広元は動揺を抑えるため尼将軍政子に御家人たちへの演説を勧めました。
幕府方は義時の嫡男泰時を大将とする東海道軍、武田信光を大将とする東山道軍、北条朝時を大将とする北陸道軍と三道に分かれて京都に進撃しました。総勢十九万騎。誇張は当然あるでしょうが少なくとも数万を超える大軍であった事は間違いありません。
(つづく)