鳳山雑記帳はてなブログ

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ソ連参戦時における関東軍の状況

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 最近「関東軍全史」(新人物文庫)や「関東軍全戦史」(別冊歴史読本 戦記シリーズ)などを読み、関東軍に関する関心が非常に高まっております。
 
 
 かつて「泣く子も黙る」と恐れられた関東軍が、いかに物量の差があったとはいえ1945年8月9日ソ連侵攻で何故ろくに防衛戦もせずああも簡単に滅び去ったか?常々わたしは大いに疑問を持っていました。
 
 といいますのも他の戦線では、硫黄島にしても沖縄にしても最終的には敗れるにしても米軍に一度は痛撃を与えているのに、早くから準備して防御陣地も十分だったはずの関東軍がほとんど抵抗のあともないくらいに敗北したのか?もし関東軍がもう少し頑張ってくれたら満洲にいた邦人で助かった人も多かったのではないか?
 
 歴史にIFは禁物ですし、彼ら日本軍将兵も一生懸命頑張っただろうから後世の我々が批判するのは酷だとは思います。ただ調べれば調べるほど、あれが精いっぱいだったという事実が分かり暗澹たる気持ちになりました。
 
 
 なぜなら、精鋭を誇った関東軍も戦局の悪化に伴い精鋭師団を引き抜かれ1945年当時まともな戦力を持った師団が一つもなかったからです。
 
 
 関東軍の最盛期は1942年だといわれています。その当時関東軍に属していた精鋭師団の終戦時の配置を調べてみると、例えば第1師団は比島戦線、第9師団は台湾、第24師団は沖縄で玉砕とほとんど満州に残っていないのです。
 
 満洲に残っていた師団で、戦力になりそうなものを拾ってみても第39師団は1939年創設の治安師団あがり、第59師団も1942年創設でこれももとは治安師団。第63師団は1943年創設で2つの独立混成旅団を合わせた治安師団と、常備師団や1939年以前に編成された一線級師団と比べると戦闘力で6~7割(これでもかなり贔屓目)と大きく劣っていました。
 
 それ以外の師団は、100番台以上の1944年以降に創設されたものばかりで訓練はおろか兵器さえも十分に行き渡ってない惨憺たる状況でした。
 
 帝国陸軍師団の精鋭度を調べる簡単な方法は師団番号を見る事です。若い番号で日露戦争に参加したくらいなら間違いなく精鋭師団。これは常備師団といって早くから整備されていました。次に1939年以前、支那事変に際して編成された師団。これも支那大陸での実戦を想定して創設されたため即戦力です。最悪なのは100番台以降の急造師団。ろくに武器もなく訓練も行き届いてない部隊と思ってほぼ間違いありません。
 
 なかには小笠原兵団(第109師団)があるじゃないか?と仰る方もいるでしょうが、109師団は兵の質としては精鋭師団に劣っていたのだと思います。ただ指揮官(栗林中将)が優れていたためあれだけ抵抗できたのでしょう。
 
 1945年の関東軍は、質が落ちたため員数合わせだけで急増された言わば張り子の虎状態だったのです。酷いのになると野砲兵連隊もましてや山砲兵連隊もなく、代わりに噴進砲(ロケット)部隊が入るという有様。
 
 「ロケット砲?カッコいいじゃん!」なんて思っている人がいたら大間違いです。ネットで当時の噴進砲を調べて見てください。まだ迫撃砲連隊のほうがましなくらいです。威力はあったかもしれませんが、機動力は無きに等しい。おそらく牽引車両も馬匹もなかったでしょうからその場に張り付いて全滅を待つだけという怖ろしい状態だったと思います。
 
 全盛期の精鋭師団が他戦線に引き抜かれて一つも残っていない状況、治安師団が最強戦力という絶望的な中よく頑張ったと褒めてあげるべきかもしれません。
 
 しかも現地動員で多くの在満邦人が徴兵され、戦後はシベリア抑留の辛酸を舐めたのですから悲しすぎます。
 
 
 こんな状況でも、国境線は簡単に突破されたものの終戦まで占領された満洲の大都市は一つもなかったそうですからよく頑張りました。在満邦人への連絡が遅れ犠牲者を増大させたなど不手際は数多くありますが、少なくとも戦闘に限っては合格点をあげて良いような気がします。
 
 
 日本は、大東亜戦争の教訓を学ぶべきです。日頃から防衛力を整えなければ結局犠牲になるのは一般国民です。尖閣問題も防衛問題をなおざりにしてきた結果ですし、竹島などまさに日本人に覚悟がないからいまだに不法占拠されたままなのです。北方領土も然り。
 
 
 今度こそ我々は間違えてはいけません。戦争をしないためには必要十分な防衛力と「いざとなったら戦争も辞さず」という国民の覚悟なのです!