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坂東八平氏Ⅱ 貞盛の子孫とそれ以外

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 NHK大河ドラマ風と雲と虹と」を久々に観賞して以来、関東武士団に対する興味が尽きません。
 
 承平天慶の乱、中でも平将門の乱の鎮圧は後の武士政権の萌芽だったように思います。例えば源経基。承平8年(938年)武蔵介として赴任し、上司の武蔵権守興世王と共に現地豪族と揉め、仲裁に入った平将門が自分を殺しに来たと疑心暗鬼になり京都に逃げ帰って将門を讒言したのが反乱の大きな原因の一つでした。
 
 源という名前から想像できるように、彼こそが源義家、頼朝などを出した清和源氏、その中でも河内源氏の始祖です。
 
 後に武家政権を樹立する源氏の初代がここまで情けない人物だという事は滑稽の極みですが、最終的に将門が反乱を起こすため怪我の功名で讒言の罪を許されたばかりか、征東将軍の副将となって関東に再び入るほどの強運(というより悪運か?)の持ち主でした。
 
 ただ将門の乱自体は現地の大豪族である藤原秀郷平貞盛らの活躍ですでに鎮圧された後だったのでこの時は恩賞に与れませんでした。さらに西国の藤原純友の反乱鎮圧にも赴きますが、これも小野好古が鎮圧した後。馬脚を現さずに済みます。
 
 その後各地の国司を歴任し最後は鎮守府将軍に任ぜられるという強運ぶりでした。繁栄する一族の初代には、能力よりもこのような強運が必要なのだと改めて考えさせられます。
 
 
 ところで関東において、反乱鎮圧に大きな功績を上げた藤原秀郷平貞盛に対する恩賞は大きなものでした。まず功績第一の秀郷には従四位下下野守、武蔵守、鎮守府将軍という田舎豪族には過ぎたる極官が与えられます。貞盛も最初は従五位上右馬助でしたが次第に累進して陸奥守、丹波守を歴任、最後にはやはり従四位下鎮守府将軍になっています。
 
 従四位というのは、五位と違って中央で累進できる可能性を持った官位なのです。ただ秀郷の子孫は中央での累進に失敗します。秀郷の嫡子千晴は安和の変源高明に味方したため失脚。もう一人の嫡子千常(どちらが兄か弟かは不明)の子孫は関東の大族小山(おやま)氏や結城氏として残りました。
 
 貞盛流の伊勢平氏、経基流の河内源氏摂関家や院と結びついて最終的には武家政権を樹立する事は皆さんご存知でしょう。
 
 では、坂東に残ったそれ以外の平氏がどうなったのか?私はとても気になりました。
 
 
 まず、貞盛の弟繁盛は兄ほど朝廷に評価されなかった不満は持ち続けましたが常陸大掾(たいじょう 三等官)に任ぜられ子孫に代々官職を引き継ぎます。すなわち常陸大掾氏です。
 
 
 一方、国香(貞盛の父)戦死後坂東平氏の棟梁になった国香の弟良兼率いる房総平氏ですが、その後どうなったのかよく分かりません。ただ村岡五郎平良文の子孫と称する上総氏、千葉氏の地盤がまさにこのあたり(房総半島)なので、その繋がりが噂されます。といいますのも、平良文は初期の資料では出てこず実在が疑われているのです。
 
 一応、現在では千葉氏、上総氏は村岡五郎良文の子孫と言われているので、その線で話を進めますが千葉氏、上総氏共通の祖は将門に続いて関東で大反乱を起こした平忠常なのです。
 
 忠常は、長元元年(1028年)から四年に渡る大反乱をおこし、源頼信の追討を受けますが降伏します。忠常本人は京都に移送される途中病死しますが、その子孫は許されました。さすがに関東に大きな地盤を持つ房総平氏を根絶やしにはできなかったのでしょう。
 
 忠常の孫、常長の時に長男常時が上総介、次男常兼が下総介に任ぜられそれぞれ上総氏、千葉氏の祖となりました。
 
 嫡流常時の孫広常は、頼朝挙兵の時二万騎を集めてこれを助けたといわれますからその勢力の大きさが想像されます。広常は驕慢の振る舞いを頼朝に嫌われ粛清されますが、これは頼朝が広常の勢力を恐れたからでしょう。
 
 これで房総平氏嫡流は弟常兼の子孫千葉氏に移ります。千葉氏は頼朝の上総氏への対抗上からか大いに幕府内で優遇され相馬氏、国分氏ら多くの支流を生み栄えました。
 
 
 村岡五郎良文流では、他に江戸氏、葛西氏、畠山氏(平姓 重忠を生んだ)、三浦氏、蘆名氏などが有名ですね。
 
 
 坂東八平氏で、嫡流貞盛の子孫以外で関東に残った者たちは中央政界の荒波に揉まれなかった事で生き残れたのでしょう。そして中央で出世した貞盛流伊勢平氏に対する反感から源氏の頼朝に味方し鎌倉幕府樹立につながったのだと思います。