鳳山雑記帳はてなブログ

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奥州総奉行 葛西一族

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 葛西氏は、桓武平氏平良文(よしふみ)の流れをくむ秩父氏の一族豊島氏の支流です。高望王の子村岡五郎良文の孫中村太郎将恒(常)が武蔵介藤原真枝を討った功によって、下総国葛西郡を与えられたのが始まり(武家家伝より)とされます。
 
 葛西郡は下総国葛飾郡葛西庄から起こった名前で、平良文の孫将恒の時に秩父氏を称し、さらに将恒の曾孫康家の時に豊島氏を称しています。康家の孫清重の時に葛西三郎と称していますから、清重(1161年~1238年)が葛西氏初代だと考えられます。
 
 この葛西清重という人物は重要で、父清光と共に頼朝の挙兵に参加します。同じ秩父一族の江戸重長が平家方であった事を考えると早くから頼朝に従った功は大きかったと思います。大族秩父一族では畠山重忠、川越重頼とともに勝ち組に入ったともいえます。
 
 清重は、富士川の合戦、常陸佐竹氏討伐、源範頼を大将とする平家討伐など一連の戦に参加、奥州合戦では大功をあげ戦後頼朝から殊勲抜群として奥州藤原氏旧領のうち胆沢郡磐井郡牡鹿郡などを与えられます。さらに奥州総奉行に任ぜられ陸奥の国の御家人統率を命じられました。ちなみにこの時伊沢家景も奥州留守職(るすしき)に任じられます。これが留守氏のはじまりです。
 
 葛西氏の奥州との関わりの始まりですが、最盛期(戦国期)には葛西七郡(伊沢、磐井、江刺、本吉、桃生、気仙、 登米)三十万石を数え奥州の有力大名になりました。
 
 葛西氏の初期の本拠は石巻日和山城でした。清重自身は奥州の安定を見て鎌倉に帰ったようですが一族を代官として現地に派遣していたようです。系図では清重の次男朝清が奥州に下ったようですね。
 
 葛西氏は南北朝時代登米郡寺池城に本拠を移したといわれていますがはっきりしません。というのも石巻系と寺池系で嫡流争いがあったようなのです。そのために系図もいくつかあり混乱しています。
 
 常識的に考えると初め石巻系(朝清)の葛西氏が土着していて、鎌倉末期嫡流家(清親系)が鎌倉から下向し寺池城に拠ったのではないかと思いますが、逆に石巻嫡流で寺池系が乗っ取ったという説もあるのです。
 
 南北朝で葛西氏も北朝方と南朝方に分かれて争ったそうですから、最後には寺池系が葛西氏の実権を握り嫡流に落ち着きました。
 
 系図で葛西晴重がどちらの系統かはっきりしないのもそのためです。寺池系葛西氏による系図の操作は当然あったはずですから。
 
 
 晴重の父で葛西氏十三代の政信(1433年~1506年)にも家督相続上の異説があり、本来なら葛西宗清が正当な後継者であったのを、十二代尚信を政信が毒殺し家督を強奪したというのです。私はこの異説の方が信憑性あると思います。系図でも不自然な点が見受けられますし。宗清は石巻城主葛西満重の養子。伊達成宗の次男。
 
 このため政信と宗清は当主の座を巡ってしばしば争ったそうです。
 
 
 ところで葛西氏といえば、すぐ南に隣接する大崎氏との関係が話題に上ります。大崎氏は足利一門斯波氏の一族で奥州探題として南北朝時代に下向し大崎五郡(志田郡玉造郡加美郡遠田郡栗原郡)に土着しました。
 
 鎌倉幕府奥州総奉行室町幕府奥州探題。職責が似ている事もあってライバル関係となった事は想像に難くありません。しかもどちらも結局奥州全土に威勢を及ぼす事は出来ず一地方勢力に落ちぶれたわけですから。
 
 十四代晴重(政信の三男)も十五代当主として伊達稙宗の六男晴胤を迎えています。この頃の奥州情勢は大国伊達氏の動向抜きには語れなくなっていました。奥州の有力大名家(葛西氏、大崎氏、留守氏など)は伊達家と姻戚関係を結ぶか養子を迎え(=伊達氏から強要されて)緩やかな従属関係を結ばざるを得なくなります。
 
 天文の乱(1542年~1548年)で一度リセットされるものの桑折西山城(こおりにしやまじょう)から出羽国置賜郡米沢城に本拠を移した晴宗、輝宗の時代に盛り返し伊達家は会津の蘆名氏と共に奥州の騒動の中心になっていきました。
 
 伊達氏は本拠の伊達郡信夫郡置賜郡(出羽・米沢盆地)だけで三十万石あったといわれ岩代や陸前(現仙台平野)に進出し五十万石の実力はあったといわれています。
 
 葛西氏は三十万石と称されながら、豊臣秀吉の奥州仕置後葛西・大崎領を与えられた木村吉清の石高(三十万石)を考えるとせいぜい十五万石というのが実態だったろうと考えられます。
 
 十五代晴胤(1497年~1555年)の代が天文の乱の時期に当たります。味方した兄伊達晴宗が天文の乱で勝利したため乱による直接の被害は受けなかったようです。晴胤の代に戦国大名葛西氏としての基礎が築かれます。ちなみに兄である伊達晴宗(1519年~1578年)と生没年がおかしいので生没年を繰り下げるべきだという説があります。伊達稙宗から迎えた養子は別におり(葛西牛若丸)、晴胤は養子には変わらないものの一族の葛西稙清の子だという異説あり。
 
 この頃正式に寺池城が葛西氏の本拠として確立しました。十六代親信(晴胤の長男)は1555年家督を相続しますが、間もなく起こった隣国大崎氏との抗争に疲れ1560年病死してしまいます。
 
 十七代は弟晴信が継ぎます。この葛西晴信(1534年~1594年)こそ葛西氏最後の当主です。大崎氏と対抗するために伊達氏と結んだり1569年にははるばる上洛して織田信長に謁見、所領を安堵されるなどなかなかやっているんですが、致命的だったのは1590年の豊臣秀吉による小田原征伐に参陣しなかった事です。
 
 伊達政宗が参陣を散々迷った末決断したくらいですから、中央の情勢に疎い葛西氏などが迷ったのは仕方なかったかもしれません。それを考えるとさらに僻地(陸奥)の津軽為信がいち早く小田原陣に参陣して本領安堵を勝ち取ったことは恐るべき慧眼と言わざるを得ません。
 
 結局この時参陣しなかった奥州大名は所領を剥奪されました。ただ異説もあり、葛西晴信は秀吉の奥州平定に抵抗し徹底抗戦するものの寺池城あるいは佐沼城で戦死したともいわれます。こうなると言わずもがなですが(苦笑)、このように晴信の最後ははっきりしていません。改易後に諸国を放浪し1597年加賀で死去したという説があります。
 
 
 大名としての葛西氏は十七代で滅亡しますが、一族の多くは伊達氏、南部氏に仕えて細々ながらも家名を残したそうです。