渋川氏は清和源氏足利一門です。しかも宗家に近いかなりの家格を誇りました。私の独断ランキングでは斯波家、畠山家、吉良家に次ぐ4位。御一家と尊崇され吉良家と並ぶ毛並みの良さでした。
なぜ渋川氏がこれらの領国をもって守護大名化せず消え去るように滅んだか?ですが、その理由は一つ。有能な当主が一人も出現しなかったからなんですね。
渋川氏は足利宗家四代泰氏の次男義顕が上野国群馬郡渋川に土着して、渋川氏を名乗ったことに始まるそうです。三河時代(宗家三代義氏が三河守護に任じられて以来)のごく初期に三河以外で領地を得ているあたり、その勢力が想像されます。
渋川氏が目立ち始めたのは、なんといっても渋川氏四代義季(よしすえ)の娘幸子が足利二代将軍義詮の正室になってからでした。
義季の孫義行(よしゆき)は、叔母の七光りで1365年わずか18歳で九州探題に任命されます。しかし能力ではなく姻戚関係での抜擢でしたのでまともな働きをする事はできませんでした。若年でもありましたし。
幕府は義行のために備中・備後の守護職を与え九州下向の準備をさせる優遇ぶりでしたが、結局南朝勢力の躍進のため一歩も九州に入る事が出来ず、名ばかりの探題となります。そして1370年、ほとんど何もしないまま探題職を更迭されました。
その後を受けたのが義行の次男、満頼でした。すでに九州は平定し、無難に務めてくれればいいということで、やはり七光り人事でした。満頼は1396年から1419年まで九州探題職を務めます。有能ではないにしても無能でもなかった満頼は守護少弐氏の影響力の強い筑前を避け肥前を探題領国とし、李氏朝鮮との海外貿易を積極的に推し進めるなど渋川氏の九州における基盤を築きました。
満頼の後を継いだのは子の義俊(よしとし)でした。彼の代から渋川氏苦難の時代が始まります。北九州に勢力を張る少弐氏との対立が激化したのです。元々鎌倉時代に筑前・豊前・肥前三国の守護を務め足利尊氏も援けた少弐氏でしたから、幕府が派遣した九州探題が主人顔をしてあれこれ指図する事に我慢できなかったのです。
義俊は、1423年本拠として勝尾城(佐賀県鳥栖市)を築きました。このあたりが渋川氏の本拠地だったのでしょう。1425年再び満貞に敗れた義俊は1428年隠棲し、探題職を従兄弟の満直に譲ります。義俊は1434年筑後酒見城で寂しく世を去ったそうです。享年35歳。
ちなみに彼の孫、義廉(よしかど)は名門斯波武衛家(斯波宗家)の養子に入り十一代を継いでいます。
その後の渋川氏ですが、名ばかりの九州探題職と肥前東部は保ち続けます。しかし頼みの綱大内盛見が1431年少弐満貞に敗れ戦死。満直は一気に旗色が悪くなります。そして1434年肥前神崎で少弐一族の横岳頼房と合戦して敗死、享年45歳。
次の教直の時代はやや盛り返しました。大内勢が少弐氏を筑前から一時駆逐したからです。応仁の乱では大内氏とともに西軍につき、東軍の少弐教頼と筑前・肥前で合戦します。そしてついに1468年宿敵少弐教頼を筑前高祖城で自刃に追い込みました。
教直の探題職は45年も続きます。1479年肥前綾部館で死去。享年58歳。
そのあとは万寿丸の弟、尹繁(ただしげ)が継ぎました。しかし少弐氏の攻撃は続き、肥前を追われ筑後に逃亡、一時滅亡寸前になります。この時も渋川氏を救ったのは大内義興でした。大内氏としても九州進出の大義名分である渋川氏を滅ぼすわけにはいかなかったのでしょう。
しかし不死鳥のごとく蘇るのが少弐氏です。大内軍が去ると生き残った少弐政資の三男、資元は勢力を盛り返し再び渋川氏を攻めます。1504年、尹繁は居城、白虎山城(佐賀県三養基郡みやき町の背振山地南方の標高115mの丘陵に位置する)を追われその後は消息不明です。
一説では、少弐方に寝返ったため大内義興に討たれたともいわれています。1534年大内軍に綾部館を攻められ自害とも?(これが真実だとすると隠居して綾部館にいたことになりますね)
渋川氏最後の当主義長(尹繁の子)の時代その動きは顕著になってきました。
敵の敵は味方という事で、ここで初めて少弐氏との共闘が成立します。面白いのは少弐氏も本拠筑前を追われ肥前勢福寺城に逃げてきていた事です。強大な大内軍に対抗するため肥前東部に集まった弱小勢力同士というところでしょうか?(苦笑)
大軍を前になすすべもなく、義長は城を落とされ自害します。これで名門渋川氏嫡流は完全に滅びました。
ただ、その間に勢力を拡大した少弐冬尚は大内氏滅亡までしぶとく生き残りました。それを滅ぼしたのは元家臣竜造寺氏。このあたりの経緯は以前記事にしていますね♪
渋川氏滅亡後、勝尾城や朝日山城などは少弐氏の所有になっていますからうまく立ち回ったものです。
ちなみに、勝尾城を受け継いだのは少弐一族の筑紫氏。筑紫広門などで有名ですね。