



最近、私が世界史特に西アジア史に凝っていることは常連の読者様にはなんとなくお分かりだと思います(笑)。
その流れで前回大月氏の甘粛回廊からソグディアナ(中央アジア、アラル海にそそぐ大河アムダリア、シルダリア間の肥沃な土地)、バクトリア(大夏)、ガンダーラ(現在のアフガニスタン東部からパキスタン北西部にかけての地方)まで続く長い旅を見てきました。
それだけでは飽き足らず、いまだに西域と呼ばれる地方への憧れは止みません。
俗に暗殺者教団と呼ばれたニザリ派、アサシンの語源になった彼らの事は皆さんもどこかで聞いたことがあるでしょう。
あんな異端教団と一緒にするなと本願寺関係者からお叱りを受けそうですが、かくいう私も西本願寺派の浄土真宗宗徒ですから批判する資格は十分あるでしょう。あんたらも偉そうなこと言えないほどえげつないことしてまっせ!だいたい死んだら極楽浄土に行けるからと無知な教団の信徒を騙し戦(一向一揆)に駆り立てたあんたらと、死んだら楽園に行けるからと敵対国家の重要人物を信徒に暗殺させたニザリ教団とどこが違うんですか?
無知な信者を騙して己の私利私欲を達成するという悪質さでは何ら変わりませんよ!(怒)
まあ己も属する本願寺教団に対しての悪口(と言っても歴史的事実だが…)はこれくらいにして(苦笑)本編にもどりますが、当時のニザリ教団はセルジューク朝衰退期の混乱に乗じてペルシャ、シリア、エジプトに勢力を広げ時には世俗君主と戦争できるくらいの実力を持った大教団でした。
彼らの得意技であった暗殺も、イスラム世界は言うに及ばず十字軍諸侯、はてはモンゴルの大汗までも暗殺の対象になるほど(未遂に終わりましたが)でしたから、フラグにとっては絶対に叩き潰さなければならない存在でした。
この記事を書くにあたってグーグル地図で調べたんですが、私の想像したより意外と小規模でした。確かに奇怪な岩塊の頂上にあっていかにも難攻不落といえそうですが、遺構はせいぜい西北から東南に2~300mくらい。幅も一番広いところで50mないくらい。もちろんここは日本の城でいったら本丸で山腹に城塞の施設が散在しているのでしょうが、まあ日本の山城でこれくらいの規模のものはざらです。せいぜい千人も籠城すればいっぱいいっぱいだと素人考えでは思いました。
千年の昔、この地で暗殺者教団とフラグ率いるモンゴル軍が戦いを繰り広げていたんだなあと思うと感慨深いものがありますね。
フラグの西征に関しては、誰も興味ないと思いますが資料が揃い次第いずれ書く予定ですので覚悟していてください。興味ない方はスルーの方向でよろしく!(爆)