鳳山雑記帳はてなブログ

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稲の道、文明の道

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 人類の文明発展の歴史を描いた傑作シミュレーション「シヴィライゼーション」では、最初に農耕の技術が与えられます。そして陶器の技術を発明して生産した農作物を貯蔵することで富(この場合は食料)の概念が生まれ、富を公平に分配するために筆記や法律が生まれ次第に文明は発展していきました。
 
 このあたりゲームデザイナー、シド・マイヤーの見識の高さが窺えますが、実際の人類の歴史においてもまず農耕が最初にきて人々が集住しそれがいつしか文明に発展していったのだと思います。
 
 
 日本人にとっては主食である米が文明の基礎にあるのは異論ないところだと思いますが、稲作が一体どこで始まったのか諸説あってはっきり分かりません。そこで私の勝手な推測で稲作伝播の歴史を考えたいと思います。最初に言っておきますが何の学術的根拠もないので悪しからず(苦笑)。
 
 
 中尾佐助著「栽培植物と農耕の起源」(岩波文庫)によると世界では最初に4つの農耕文化が誕生しました。
 
 いちばん有名なのはシリア・アナトリアを起源とし主に小麦・大麦などを栽培する地中海農耕文化です。アフリカ・ニジェール川流域を起源とし胡麻ヒョウタン・シコクビエを栽培するサバンナ農耕文化、マレー半島など東南アジアを起源としバナナ・タロイモ・サトウキビを主に栽培する根菜農耕文化、トウモロコシ・かぼちゃ・ジャガイモを主な栽培植物とする新大陸農耕文化があるとされます。
 
 稲作は地理的にいっても栽培植物の種類(サトウキビはイネ科)からいっても東南アジアおよびその周辺部で発祥した可能性が一番高いと思います。
 
 
 そこで一番に頭に浮かぶのが、このブログでも以前紹介した事のあるタイのバン・チアン遺跡。一説では6000年前の土器が見つかり稲作を行い家畜として豚を飼っていたことが発掘調査で明らかになっています。古代文明でも初期に属する遺跡で稲作の痕跡が見つかった事は意味があると思います。
 
 しかしこの文化を担った民族が良く分からないのです。現在この地に住んでいるタイ族ベトナム(越)族は北方から渡ってきたことが分かっていますので、可能性としてはクメール族か占城(チャンパー)を建国したチャム族なのでしょうが、どうも私見では直接の子孫ではないような気がします。
 
 むしろ何らかの理由(天変地異)で滅んだバン・チアンの人々から農耕を中心とした文化を引き継いだのがこれらの人々ではなかったかと考えています。
 
 バン・チアンのルーツを氷河期の海退でできたスンダ大陸で揺籃した初期の超古代文明に比定することもできますが、ここでは長くなるのと真剣に突き詰めるとかなりとんでも説になりそうなので割愛します(苦笑)。
 
 
 稲作の起源の一つとして良渚遺跡などに代表される長江文明(紀元前3000年~紀元前2200年)をあげる研究者もいますが、稲作技術が長江文明で発展したとしても発祥はもっと南だと私は思っています。
 
 といいますのも初期の稲作は棚田のように傾斜を利用した水田耕作だったはずだからです。むしろ雲南のような山岳丘陵地帯だった可能性が高いと思います。日本でも最初の稲作は棚田方式でしたから。
 
 
 ここでは最大公約数的に東南アジアから雲南を含む華南を稲作の起源地としておきましょう。それが同族であるタイ族や越族の広がった華中の長江流域に伝播し、稲作による文明が発展したのでしょう。
 
 
 しかし、中国古代史に詳しい方なら長江流域は中原地方に住む漢民族にとっては蛮夷の地、人口も少なく未開人の住む所というイメージが強いと思います。
 
 
 大規模な稲作は大きな人口を養う事ができるはずなのに、何故そのまま発展せず長江流域は衰退していたのでしょうか?
 
 
 私はここでも天変地異説を唱えたいのです。地図を見て頂くと分かると思いますが東シナ海に面する江蘇・浙江地方は低湿地が広がります。稲作を行うには好条件ですが大地震とそれに起因する大津波が襲えば壊滅的な被害をもたらすはずです。以前は大洪水説を考えていたのですが今はこちらのほうが可能性は高いと考えています。
 
 
 しかし住民がすべて死に絶えたはずはなく生き残った住民はどこかへ移動したはずです。私は長江文明の生き残りは黄河流域に移動したと推理しています。二里頭遺跡に代表される伝説の夏王朝は中国最初の王朝とされますが、その成立は紀元前2070年頃。一方長江文明が滅んだのは紀元前2200年頃。妙に年代が符合します。しかも夏王朝を開いた兎王の墓は浙江省会稽にあるのです!長江文明の生き残りが黄河流域で発展した麦作農耕民を征服して建てたのが夏王朝。その苛酷な支配に耐えかね反乱をおこして東方民族が夏を滅ぼして商を建国し、さらに同じ経緯を辿ってシナチベット語族系の西方の周民族が建国し数々の民族が混じり合って現在の漢民族を形成したのでしょう。
 
 一方、長江文明下で発展した稲作技術は周辺諸国にも伝播し、黒潮によって日本にももたらされたと考えます。旧来の説である朝鮮半島経由で稲作が伝わったという説は誤りなのではないでしょうか?長江文明からの伝播、あるいは華南・東南アジアからの海路を伝っての直接の伝播が現実的のように思います。
 
 さらに長江文明が滅んだ後は、稲作とともに人も多く逃れてきた可能性があります。
 
 朝鮮半島南部の稲作もむしろ日本列島から北上した可能性が高い。といいますのも半島南部に倭人が住んでいた可能性を否定できないのです。任那日本府とは日本の植民地ではなくそのものずばり日本民族が住んでいた土地だったはずなのです。
 
 
 いかがでした?以上日本に稲作が伝わった歴史を勝手に推理しましたが、皆様はいかが思われますか?