鳳山雑記帳はてなブログ

立花鳳山と申します。ヤフーブログが終了しましたので、こちらで開設しました。宜しくお願いします。

軍事面から見た隋の高句麗遠征

イメージ 1
 
 紀元612年、隋の二代皇帝煬帝は103万(一説では130万)の大軍をもって高句麗に侵攻します。水陸から攻め込んだ隋の大軍は高句麗の英雄的な働きによって退けられ、この敗戦によって国力を費やした隋は、諸国に反乱が起こり滅んだとされます。
 
 はたして真相はどうなのでしょうか?素人考えでは100万の大軍があったら少々の抵抗はあっても数の暴力で圧倒し、簡単に征服できる気もします。
 
 私はこの大遠征失敗の要因は、高句麗よりも隋軍そのものにあったような気がします。
 
 もちろん、世界史上100万もの大軍を集めることができたのは中国とペルシャ、そして人口的にはローマ帝国もでしょう。ペルシャは100万の大軍を動員したという伝説はあるものの不思議にローマはありません。最大でも20万内外くらい。
 
 私はこれをローマ帝国の戦上手と解釈します。といいいますのもローマ人は兵站の意味を十分理解していたのです。100万の大軍はそれ自体強力な力を発揮しますが、その巨体によるもろさを同時に合わせもちます。
 
 古代世界ですから、装備は弓・刀・剣・槍くらいで最悪現地調達も可能でしょう。燃料もいらないためさしあたって補給の必要があるのは食料と軍馬の秣。
 
 分かりやすくするために兵士一人の1日の食糧を1キロとします。100万人だと1日1000トン必要となります。荷馬車でこれを運ぶとして搭載量を1トンくらいと仮定すると1日の必要荷馬車数は1000台!これは純粋な戦闘部隊と違いますから余計にかかるという事です。こういう輸送部隊まで含めての数が100万だとは思いますが、それにしても補給の負担はあまり変わりません。食べる人間の量は変わらないからです。
 
 しかも軍馬が何頭いたか知りませんが、軍馬の秣は人間の数倍必要です。
 
 現地で略奪すれば良いと思われる方もいるでしょうが、それだけ莫大な量だと一地方では数日から一月くらいで食べ尽くしてしまいます。まるでイナゴの大群が移動するように、動いた後には何も残りません。
 
 歴史上、数十万の大軍を動かした例として、漢の匈奴遠征が挙げられますが、漢軍は補給の負担を軽減するために数万ずつを別々の場所から進軍させ、補給路もその分だけ用意しました。それでも国家財政に与える圧迫はものすごく、ために漢は疲弊したとされるくらいです。
 
 アケメネス朝ペルシャのダレイオス大王のスキタイ遠征も補給の負担に耐えられず自滅した可能性が高いと思っています。
 
 とすれば、100万の大軍を動員した隋の高句麗遠征も莫大な補給上の負担があったに違いありません。
 
 海軍を利用して補給したとしても、内陸に兵站を伸ばさざるを得ませんから敵国内奥深く侵攻すればするほど兵站上の負担がじわじわと効いてきます。おそらく劣勢の高句麗軍は隋軍と正面からは当たらず後方の補給路を叩いたでしょうから時間がたてばたつほど隋軍は弱ってきます。
 
 そしてついにはその数によって自滅せざるを得ないのです。隋軍は100万という大軍そのものの持つ弱点によって滅び去ったといえるでしょう。
 
 
 一方、ローマ軍は数に頼ることなく自国兵站の負担にならない兵力で遠征したため、敵国で補給に苦しんだという話をあまり聞きません。ただしあまりに少ない兵力で進撃したため苦労したという話は良く聞きますが(苦笑)。カエサルガリア遠征など最大でも10万超えませんからね。おそらく平均では4~5万位しか動かしていないでしょう。しかも兵站線の確保に最大の注意を払っている事が戦史に記されています。
 
 
 よくローマ帝国と漢がもし戦ったら?というIFを聞きますが、私は最終的にローマ軍の圧勝に終わるのではないかと考えます。兵の質も戦術も武器も上ですし、異民族戦争の経験もはるかに上ですからね。
 
 
 2ちゃんねる歴史板で、諸葛亮率いる三国志の蜀軍とハンニバル率いるカルタゴ軍がもし戦ったら?というIFが語られていますが、これも同様。勝負にならないと思います。もちろんカルタゴ軍の圧勝。いくら諸葛亮に智謀があってもそれだけでは兵の質・武器・戦術ドクトリンの差は逆転不可能です。というより諸葛亮三国志演義のような大軍師なら直接戦うことは回避するはずです。
 
 ローマ軍と勝負になるのは、アレクサンドロス率いるマケドニア軍くらいかもしれませんね。
 
 中国史ファン、三国志ファンには申し訳ないですが、世界史全般を見ている私からすると、これが結論です。