商(殷)を滅ぼして天下を統一した周の武王。一代の英傑はすでになく幼い彼の息子成王の御世になっていました。当然幼い王に国を統治できるはずもなく、後世聖人と称えられた武王の弟周公旦が摂政として国政を取り仕切っていました。
王といってもまだまだ幼い子供です。ある時成王は王宮の庭で弟、虞(ぐ)と遊んでいました。桐の葉を削って珪(けい、諸侯を封ずる印)を作った成王は、それを弟に与えて言いました。
「虞よ、汝をこれで侯に封じよう」
それを見ていた大史の尹佚(いんいつ)は、成王に吉日を選んで虞を諸侯に封ずる式を挙行するように請いました。
蒼くなった成王は
「朕はそのようなつもりで言ったのではない。あれは虞と遊んでいただけじゃ」と否定します。
しかし尹佚は厳しい顔で言いました。
「天子の声は天の声に等しいものです。一度発せられたら必ず実行しなければなりません。だからこそ天子であり国を統べることができるのです」
どこかの馬鹿総理に聞かせたい言葉ですが、これ以後すっかり懲りた成王は不用意な発言をしなくなったそうです。これこそ教育の賜物でしょう。周公旦をはじめ建国の名臣たちに補佐された成王はまずまずの名君となり国を統治しました。
虞は、王弟なのでいずれはどこかに封じられて諸侯になれたとは思いますが、思わぬことで幼少の身で唐(山西省、黄河湾曲部の東北)の地に封じられます。以後唐叔虞と呼ばれるようになりました。唐は子燮のときに晋水にちなんで国号を晋と改名します。
これが春秋時代の強国晋の始まりです。
晋は中原の北のはずれにあり、白狄や赤狄などの異民族に接していたためか尚武の気風を持ちます。このため中原の高い文化の中に安住した中原諸侯を武力で圧するようになり春秋時代中期には周公旦の子孫である魯(ろ)や、太公望姜子牙の封じられた斉さえも従える大国になりました。
こうして見ると歴史は面白いですね。中原諸侯は「子供の遊びでできた国」に支配されるようになった事に対してどのような気分を抱いていたのでしょうか?たいへん興味がわきます(笑)。