上総土岐氏は、北条氏の勢力がこの地に進出してくるにつれ里見氏から北条氏に乗り換えたようです。
舞台は土岐氏最後の当主頼春の頃です。頼春には一人の美しい娘がいました。年のころは十九か二十歳。当時なら結婚していてもおかしくない年頃でしたが、彼女は幼少より観音菩薩の信仰が厚く常の世に生きる人ではなかったようです。
しばしば城を抜け出しては乞食や巡礼に姿を変え、領内を巡って戦場で倒れた無名戦士に経を手向けたり貧しい領民に施したりしていました。そうした彼女を領民は慕います。童子たちは後についてきては
「お福女さまが通る♪
お福女さまが通る♪
すすきが原の桔梗花(桔梗は土岐氏の家紋)
観音様のお使いよ♪」
などと囃したてたそうです。
殺伐とした世の中で、ほのぼのとした牧歌的な光景が浮かびます。
しかしそんな平和な時代は長くは続きませんでした。1590年豊臣秀吉の小田原征伐です。土岐氏は北条氏に与したため万木城にも敵が攻めよせてきます。北条氏の要請で小田原城に主力を送っていたため、城内に残っているのはわずかな兵だけでした。頼春自体小田原に詰めていたという説と本人は万木城に残っていたという説と二つあるのですが、ここでは万木城籠城説を取ります。
城主頼春はこの時討ち死にしたとも逃亡したともいわれ定かでありません。万木城は抜け穴の多い城でした。一人娘福姫は侍女二人とともに海雄寺の抜け穴に入りました。それは夷隅川に通じていて小舟で近くの小浜城に逃れるつもりだったようです。
ところがどこから嗅ぎつけたのか敵兵の足音がひたひたと迫っていました。もはやこれまでと覚悟した福姫は、辱められるよりはと懐剣を取りだし自害して果てたと伝えられます。
観音菩薩は彼女を哀れに思い、死後も辱められることのないよう彼女を石地蔵に変えたそうです。追手がその場所に来た時一体の石地蔵が横たわるのみでした。
伝説に現実的解釈をするのは野暮ですが、おそらく彼女の遺体は領民たちによって丁重に葬られたのだと思います。石地蔵伝説はそのことを象徴しているのでしょう。地元では有名な話だそうですが、私もいつか訪れたいと思っています。