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太田道灌の足軽戦術

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 太田資長、号して道灌(1432年~1486年)。関東管領山内(やまのうち)上杉家に対抗した庶流、扇谷(おうぎがやつ)上杉家の家宰として、弱小の主家を支え相模・武蔵に勢力を広げ嫡流山内上杉家をしのぐ勢力に育て上げた名将です。

 教養が高く山吹の故事で知られる彼ですが、一方戦術家としても独特の足軽戦法を使って旧来の騎馬武者を中心とした他家の軍勢を圧倒しました。


 道灌足軽戦法の実態ですが、実はよく分かっていません。領内に弓射場を設けて兵を鍛えていたという記録から足軽部隊の有力兵器として弓を多用したのは間違いないでしょう。


 足軽そのものを道灌が発明したと誤解している人もいますが、足軽自体は南北朝時代に出現しました。私が想像するに、旧来の浮浪者・遊民などから成っていた足軽と違い、道灌の軍勢は専門兵として領内から徴募した部隊だったのではないかと思います。


 当時の経済力から足軽で大軍を編成することはできませんから、最盛期でも1000名に満たなかったのではないかと想像します。しかし、これらの部隊は日ごろから道灌が鍛えているだけあって機動力に富み、高い士気を保った精鋭部隊だったのでしょう。


 用兵としては地形を利用した奇襲を多用したのではないかと思います。といいますのもいかに精鋭だとしても騎馬武者の機動力にはかなわないからです。しかも関東は名だたる騎馬武者のメッカ。何の障害もない平地での戦闘では、包み込まれて壊滅します。

 おそらく道灌は、足軽をナポレオン戦術における散兵(そのルーツは古代ローマのウェリテスにある)のように使っていたと考えます。



 まず敵軍を地形を利して待ち伏せる。敵が優勢ならやり過ごし、こちらが有利なら先陣を通過させてから側面あるいは背後から弓を一斉射撃して混乱させる。そこへ槍勢が攻めかかり突き崩す、おそらくこのような展開で戦ったのだと思います。


 それまでの一騎討ちの延長のような感覚の敵に対して、足軽の集団による奇襲戦法を使ったのが太田道灌だと言えるかもしれません。足軽戦法は戦国時代が進むにつれて次第に一般化していきます。足軽は騎馬武者の従者ではなく戦いの主力となっていきました。そして鉄砲の出現で足軽が完全に騎馬武者を凌駕するようになります。



 太田道灌足軽戦術、謎は多いですが弱者が強者を破るにはこの用法しかなかったように思います。皆さんはどう思われますか?