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プファルツ選帝侯フリードリヒ5世冬王   - シリーズ『ドイツ30年戦争』① -

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 ドイツ30年戦争(1618年~1648年)は、プロテスタント(新教)とカトリック(旧教)による宗教戦争であったとされます。しかし調べていくと、確かに宗教対立が発端ですが、その実態はスペイン・オーストリア両ハプスブルグ家によるドイツ支配強化を嫌った貴族たち(おもにプロテスタント諸侯)の抵抗という側面もありました。
そして最後はフランス、オランダ(ネーデルラント)、デンマークスウェーデンまでも巻き込んだ国際戦争に発展したのです。
 

 本シリーズでは、幾人かのキーに当たる人物に焦点を当ててドイツ未曾有の内戦ともいうべき30年戦争を見ていきたいと思います。まず最初は、30年戦争のきっかけを作った人物、プファルツ選帝侯フリードリヒ5世です。なぜ彼が冬王と呼ばれたかはおいおい説明します。


 プファルツはドイツ西部ライン沿岸地方にある一侯国です。しかしただの侯国ではなく、別名ライン宮中伯神聖ローマ皇帝を選挙で選ぶことのできる所謂七選帝侯の一人。帝国では最上級の貴族でした。


 本稿の主人公フリードリヒ5世登場の前に当時のドイツの国情を話しておきましょう。


 中世を通じて欧州に君臨したローマカトリックは、次第に腐敗し単なる土地貴族と化していました。これに疑問を呈したルターやカルヴァンらは変革を求め所謂プロテスタント運動を起こします。

 庶民は皇帝、貴族たちによる圧政から逃れるためこの新教を受け入れプロテスタント運動は遼原の火のようにヨーロッパ中に広がりました。そしてドイツにおいてはローマカトリックと結びつくことで皇帝権の強化を図る神聖ローマ皇帝つまりハプスブルグ王朝に対する貴族の嫌悪がこれと結びつくのに時間はかかりませんでした。

 プランデンブルグ、ザクセン、プファルツという選帝侯までがプロテスタントに改宗するという事態に、はじめは静観してきたハプスブルグ家も皇帝フェルディナント2世が即位すると圧迫政策に変わりはじめます。


 ところで新教の一大中心地ボヘミア(現チェコ中西部)はもともと選帝侯であるボヘミア王が統治していましたが、王朝の断絶を受けてハプスブルグ家が王位を継承することとなっていました。フェルディナント2世は皇帝権の強化のためにもボヘミア王位を重視し、プロテスタントを弾圧してカトリックの牙城にすべく行動します。

 これに怒ったプラハ市民が1618年皇帝の代理人を国王執務室の窓から放り投げるという暴挙にでます。このプラハ窓外放擲事件がその後30年にわたって続けられる泥沼の30年戦争の発端でした。


 ボヘミアの貴族たちは、強大な皇帝軍に対抗するために外部からの援軍を期待してあろうことか選帝侯の一人プファルツ侯フリードリヒ5世を王に選出してしまいます。

 フリードリヒは、周囲の反対を押し切ってこれを受けボヘミア王に即位します。あからさまな皇帝に対する反逆です。1619年の事でした。

 フリードリヒとボヘミア貴族たちは、他のプロテスタント諸侯の援軍を期待していましたが皇帝フェルディナント2世の行動は早いものでした。反皇帝では一致していても実際の戦争となると皆が躊躇していました。その隙を突いた電撃作戦です。


 早くも1620年には、名将ティリー伯ヨハン・セルクラエス率いる皇帝軍2万7千、大砲12門がボヘミアに侵入します。迎え撃つボヘミア軍は総勢2万1千、大砲7門。


 両軍は1620年11月8日、プラハ郊外の白山(チェコ語名ビーラー・ホラ Bílá hora)でぶつかりました。

 
 寄せ集めのボヘミア軍に対し、皇帝軍はティリーの母国バイエルンを中心とした精鋭部隊です。戦いは鎧袖一触、わずか半日で皇帝軍の圧勝に終わりました。


 ボヘミア貴族の多くが戦死し、ボヘミア王フリードリヒと妃エリーザベトは亡命します。最終的にはネーデルラントまで逃げたそうです。そのとばっちりを受けてボヘミアの新教徒15万人が亡命を余儀なくされました。


 皇帝の戦後処理は過酷を極め、反乱の指導者だったボヘミア貴族27名が処刑され658家の貴族と50の都市の領地が没収されます。

 戴冠式から1年と4日のボヘミア王であったため、フリードリヒはボヘミア冬王と揶揄されました。


 しかし皇帝の怒りはこれだけでは収まりませんでした。親戚のスペインハプスブルグ家に依頼してフリードリヒの本領プファルツ選帝侯領を占領させます。スペインにとっても植民地北部ネーデルラント(現オランダ)の独立戦争に苦しんでいたため、この申し出は渡りに船でした。

 海上ネーデルラントの同盟国イギリスに抑えられていたため、スペインにとってもライン川沿いにネーデルラントへ補給できるプファルツは格好の補給・出撃拠点となり得る土地でした。


 皇帝の悪意はさらに続きます。フリードリヒの選帝侯位を奪い、封地剥奪の勅令を発します。そしてあろうことか格下であるバイエルン侯に選帝侯位を与えてしまったのです。

 プファルツは戦後選帝侯位を回復しますが、これは従来の物ではなくあくまで新しく与えられた第8の地位でした。
 
 
 事実上これでフリードリヒ5世の政治生命は絶たれます。1630年には戦争に介入してきたスウェーデングスタフ・アドルフ王からスウェーデン配下のプファルツ侯として戦線に復帰するよう要求されますが、腐っても選帝侯、誇りが許さないフリードリヒ5世はこれを拒否して矜持を見せました。


 彼はその後の生涯を亡命先のハーグで過ごし、1632年故郷マインツで波乱の生涯を終えます。享年36歳。晩年というにはあまりにも早い死でした。


 その後のプファルツ選帝侯位は1648年、息子のカール1世ルートヴィヒによってようやく取り戻すことができました。



 ドイツ史上未曾有の大戦争を起こした張本人でありながら、あっさりと歴史の舞台から退場したフリードリヒ5世。得てしてこのような平凡な人物が歴史を動かすキーパーソンとなることが多いものです。まさに歴史の皮肉と言えるかもしれません。