鳳山雑記帳はてなブログ

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道鏡伝説と肥後弓削神社

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 熊本市の北東、菊陽町との境に弓削(ゆげ)という土地があります。私は菊陽町に友達の家があり、遊びに行くたびに通るので気になっていました。


 弓削というからには弓削道鏡と何か関係あるんだろうか?と。


 【弓削道鏡】…道鏡(どうきょう、文武天皇4年(700年)? - 宝亀3年4月7日(772年5月13日))は、奈良時代法相宗の僧。物部氏の一族の弓削氏の出自で、弓削櫛麻呂の子。俗姓が弓削連であることから、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)とも呼ばれる。兄弟に弓削浄人天智天皇の皇子である施基皇子の子とする異説もある。祈祷の力をもって王家に取り入って権力を握り、政治に容喙したことから、よく帝政ロシア末期の怪僧グリゴリー・ラスプーチンと対比される。(ウィキペディアより)



 ただ弓削氏は物部一族とも言われ河内(大阪府南東部)が本拠地とされます。道鏡自身も肥後とは何の関係もなさそうです。没したのも下野(栃木県ごめんねごめんね~♪)だし。


 ふと思い立って調べてみると、弓削という地名は弓削神社に由来しているらしいということは分かりました。しかも神社そのものが

熊本市にある弓削神社には「道鏡が失脚した後この地を訪れて、そこで藤子姫という妖艶華麗な女性を見初めて夫婦となり、藤子姫の献身的なもてなしと交合よろしきをもって、あの大淫蕩をもって知られる道鏡法師がよき夫として安穏な日々を過ごした」との俗話がある。』

と、どうも道鏡と所縁ありそうなんです。



 どうしてそんな俗説ができたのか私なりに推理したんですが皆目分かりません。肥後国司に道鏡所縁の弓削氏がなったことがあるのかと思い調べてみましたが、肥後守には弓削氏らしき人物は見当たりませんでした。もちろん介以下で可能性はありますが、ここまでくると素人では調べようがありません。


 私なりに想像をたくましくすると、道鏡本人ではなくその一族が道鏡事件に連座させられて肥後に流されていたのではないかと考えます。


 流人としてこの地で没した弓削一族の者を土地の人が哀れに思って祀ったのが、案外真相に近いのでしょう。

 そういえば熊本には小野の小町に関係がある小野泉水公園もあります。これも小町本人ではなくて小野氏の一族が罪を得て流されてきたのでしょう。日本中にある有名人の伝説は、流人か落ち武者が元ネタなんでしょうかね?平家の落ち人なんてそのものズバリだし…。

 もし領地があって下向したのなら南北朝~戦国時代に名前が出てくるはずですから。(例 日野氏 肥後南関領主。土地の名前を取って大津山氏と称した)


 皆さんの周りにも、不思議な伝説が残っているかもしれませんよ。そういえば大分県耶馬渓の近くに後藤又兵衛の墓があったな?今度調べてみよう!