鳳山雑記帳はてなブログ

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液化石炭と松根油

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 8月15日、終戦の日にふさわしい記事を何にしようかと迷っていたんですが、先の戦争はまさにエネルギー戦争だったということを考えてこれにしました。


 1941年12月8日ABCD包囲網によって戦略物資である石油の輸入を断たれた日本は、南方資源地帯の石油資源を求めて死に物狂いの戦争に突入しました。

 一方、石油の代替燃料として液化石炭の実用化に邁進することとなります。石炭は石油と同様油母(ケロジェン)から生成される炭素の多い高分子物質であり、これを液化したら石油の代替エネルギーとして使えることは分かっていました。

 しかし、液化するための製法にコストがかかりすぎる(天然石油の4~5倍)ことと、その生成のためにレアメタルであるクロム鋼が必要なこともあって諸国はあまり本気で研究しませんでした。

 ドイツでは、戦争になったら石油確保の手段がなくなることや、国内で豊富に石炭が産出することから早くから研究され最終的に年間350万トン(ドイツの石油需要の46%!)もの生産能力を有するようになっていました。

 一方、日本の場合は技術が低いこともありますが研究の遅れは致命傷となります。ある程度の生産には成功(年間20万トン強)したもののとても軍艦や飛行機を動かすまでの量は生産できませんでした。



 戦争末期になると、日本陸海軍は松根油という代替燃料に注目します。松根油というと戦史に詳しい人には粗悪燃料としてイメージが定着していますが、「陸軍燃料廠」(光人社NF文庫)などを読むとそうでもなかったみたいです。

 松の根や樹皮を釜で乾留して粗油を得、さらに粗油を蒸留すれば揮発性の高い精油が採取できることは早くから知られていた技術でした。今で言うバイオエタノールの一種でしょうか。

 その精油を高温高圧化で接触水素添加すればオクタン価の高い航空ガソリンが得られることは理論上可能でした。これも燃料戦略の進んでいたドイツではすでに実用化していた技術だったのです。


 しかし日本の場合、研究着手があまりにも遅すぎました。本格的な松根油計画が動き出したのが昭和19年、国民を総動員して松根を集め、粗油にするための乾溜釜三万七千が完成したのは終戦2か月前でした。

 全体でどれくらい生産されたのかは分かりませんが、徳山の第三海軍燃料廠での生産数が、終戦までにわずか500リットルでしたから他は推して知るべしでしょう。

 しかも研究が遅れドイツほどの精製能力がなかったためオクタン価が低く故障の原因になることもしばしばでした。


 こうしてみてくると、陸海軍の戦略性の無さには目を覆うばかりです。日本が資源小国であることははっきり分かっていたのですから、それに対する備えがなければなりません。

 ドイツは早くから燃料対策に着手し備えをしていたわけですが、どうも日本が備えていたとはとても思えないのです。石油備蓄を戦争に備えて大量に確保したという事実もありませんし、戦前の早くから代替燃料の実用化に努力したという形跡もありません。すべてが行き詰ってから泥縄式に着手したものばかりでした。


 一方、敵であるアメリカは日本の死命を制するのは石油だと喝破し経済制裁で石油禁輸を実行するのはもちろん、戦争に突入してもエネルギー施設を中心に爆撃計画を練るなど用意周到でした。

 アメリカの巧妙なところは、石油禁輸と同時にオクタン価の高い航空機用ガソリンを作るための技術や部品の日本への流出も禁止し、日本がアメリカ以外の石油を確保するのを防ぐためオランダや中東の産油国に圧力をかけて輸出させないようにしていたくらいですから、戦う前から勝負あったと見るべきでしょう。


 日本の危機管理能力の無さには目を覆うしかありません。すくなくとも明治の日本には危機管理能力が余りあるほどありました。それが何故ここまで落ちぶれるのでしょうか?とても同じ民族とは思えません。

 そしてその負の遺産は戦後日本にも連綿として(嬉しくないですが…)受け継がれています。食料自給率の問題もエネルギー確保の問題も戦前と全く変わっていません。

 日本国民全体が変わるしかないのでしょうか?口の悪い人は、日本民族は近代戦には不向きだなどと酷評していますが、そう言わせないためにも政治家を選ぶ我々自身が意識改革をするしかありません。

 官僚組織がすでに腐っている以上、政治によって変えさせるしかないでしょう。いまだに民主党を支持している8割の愚民ではなく、目覚めた人間による日本改革の動き、そして世論作り、私はこれが無い限り日本は早晩滅ぶとの危機意識を持っています。