鎌倉時代から江戸時代まで続き、その時代ごとに有力大名として生き残った一族はあまりいません。東の代表が常陸→出羽の佐竹氏(伊達氏は鎌倉時代の動向があやしいので…)なら、西の代表は何といっても薩摩島津氏でしょう。
ところで島津氏発祥の地として宮崎県都城市と鹿児島県出水市の二つの有力な説があるのをご存じですか?この前のNHK大河ドラマ「篤姫」で発祥の地を出水市だと紹介したところ都城市からクレームが出たくらいでした。
調べていくと、どうも荘園としての島津荘と鎌倉御家人としての島津氏のどちらを取るかで解釈が分かれているみたいです。
荘園としての島津荘は
『平安時代~鎌倉時代初期にかけて南九州にあった大荘園。摂関家領。日本最大の大荘園。万寿3年(1026年)に大宰大監の平季基が開発し、関白の藤原頼通に寄進。』(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
最盛期は8000町歩(2400万坪=79 338 843 m2 )で、薩摩国においてはその半分近くを占める日本最大の大荘園でした。
島津荘は西国道の島津駅(宮崎県都城市)を中心に開発されたので、荘園の発祥の地は都城で間違いないと言えます。
しかし、御家人島津氏の発祥の地となるととたんにややこしくなります。惟宗忠久が源頼朝から島津荘下司職、後に総地頭職を賜って荘園の名前を取って島津氏と称したことから都城を島津氏発祥の地とする説も分かるんですが、島津氏が守護所を鹿児島県出水市の木牟礼(このむれ)城に置いたことから、この地を発祥の地とする説も肯けるんです。
その前に、島津氏は惟宗氏だからその本貫の地讃岐国香川郡とも言えるし惟宗氏は秦始皇帝の子孫を称したから中国大陸とも言えます(爆)。まあここまで来ると伝説の世界ですが…(苦笑)。
さらに、島津氏初代忠久は薩摩には下向せず代官を派遣して荘園を支配しましたから島津氏発祥の地は鎌倉とも言えます。島津氏の血統が鎌倉で発祥したという意味で。
島津氏が薩摩に下向したのは四代忠宗からで、元寇後の異国警護番役で幕府の命で下向したのが最初でしたから、彼を薩摩島津氏としての初代と見ると出水市木牟礼城説が有力になります。
結論はまあ難しいんですが、私は守護所のあった鹿児島県出水市説を取りたいですね(笑)。