皆さんは「六分の一殿」という言葉をご存じですか?日本史の室町時代で出てきたでしょ?なんで六分の一殿かというと山陰地方を中心に日本六十余州のほぼ六分の一にあたる十一ヶ国の守護を務めていたからなんです。
これが今回紹介する山名氏です。山名宗全(持豊)という人物を聞いたことある方も多いと思います。懐かしの大河ドラマ「花の乱」で萬屋錦之介が演じたましたよね。
その山名氏ですが、発祥は新田源氏です。新田氏初代新田義重の子義範が上野国多胡郡山名に住し、山名三郎を称したことに始まるそうです。
鎌倉時代は宗家の新田氏と同様目立たず田舎豪族してたようです。鎌倉幕府倒幕には本家新田義貞と行動を共にしたみたいですが、この一族の要領の良いところは最後まで義貞に味方せず、勝ち馬の足利尊氏に接近したところでしょう。
時の山名氏当主政氏・時氏父子は、中先代の乱鎮圧に尊氏が関東に下向する際新田氏を離れて足利氏につきます。結果的にこれは大成功でした。もし義貞に最後まで付き従っていたら他の新田一族(世良田氏など)と同様滅亡してたでしょう。
山名時氏はうまく立ち回って伯耆守護を勝ち取ると、そこを中心に山陰地方に勢力を扶植します。南北朝の対立で基盤の弱い足利幕府は、これを認めざるを得ませんでした。これが十一ヶ国もの守護に山名氏がなれた原因です。
しかし三代将軍義満は、このまま黙って見過ごすことはしませんでした。1391年時氏の死後山名氏の後を継いだ氏清とその兄弟たちを挑発し、内紛に乗じる形で攻め滅ぼします(明徳の乱)。
この乱で一時山名氏は衰えるのですが、家督を継いだ氏清の弟時義の子時熙の代にやや回復し、その子持豊の代には再び六ヶ国の守護を兼ねる大勢力まで回復しました。
持豊は、時の管領細川勝元を娘婿とし自身は侍所所司として幕政を動かすまでになりました。ところが足利八代将軍義政の政治に対するやる気の無さと、九代将軍の家督争いから管領細川勝元と対立した持豊は互いに自分の与党の守護大名の軍勢を京に呼び寄せ大合戦を起こしました。これが世に言う応仁の乱です。両軍の本陣があった場所から山名方を西軍、細川方を東軍と呼びます。
この頃持豊は入道して宗全と名乗っていました。
乱は1467年から10年以上も続き、京も地方も荒廃します。足利幕府の権威は地に落ち、これによって戦国時代が到来しました。決着はつかず東西両軍は和議を結びます。
しかし室町幕府の支配体制は根底から崩れ始めていました。宗全は失意のうちに病死します。そして山名家の最盛期も宗全をもって終焉を迎えました。
以後の山名家は、宗家が但馬守護、分家が因幡、伯耆、美作などの守護として別れ一族としての結束は失われました。そして有力家臣の下克上が相次ぎ勢力は弱まります。さらには尼子・毛利の侵略を受けて国力は衰え、戦国大名に成長することはありませんでした。
宗全五代あとの祐豊の時代に織田信長の命を受けた羽柴秀吉によって、但馬守護である山名宗家は滅ぼされました。分家の因幡守護家の当主、豊国(入道して禅高)は降伏して生きながらえます。この家系が江戸時代に高家として続きました。
一時は日本の六分の一を支配した一族の末路としては哀れですが、滅びなかっただけましかもしれませんね。
ちなみに作家の司馬遼太郎氏は、この山名一族が嫌いらしく『街道をゆく』でも「この碌でもない一族が…」とこき下ろしています。要領だけで生き残り善政など布いたこともない(たぶん)大名家なのでそう思われるのも仕方ありません(苦笑)。しかも一族は団結することなく、事あるごとに対立、内紛を繰り返しそのたびに外敵に乗じられ勢力を弱めていったのですから。
歴史作家からみると魅力のない一族かもしれませんね。そう言えば山名一族を主人公にした歴史小説ってないな?(爆)
これよりはまだ最上義光(←今読んでる)とか村上義清なんかの方が面白いですもん(笑)。でも私から言わせればその分とても味があるんですけどね(核爆)。